皇宮山蚶満寺本堂蚶満寺  仁寿3年(853)滋覚大師の開山 大師は景観の美しさに感じ入り八幡宮に奉納した潮干る珠と潮満る珠からその名に因むとの説もある 山門は江戸中期の建造で1812年閑院宮家の御祈願所となり瓦には菊の御紋が用いられている カンマンとは印度サンスクリット語で不動明王を意味するとも云うが北条時頼が京都仁和寺から蚶満の二大字の書を受け現在名になったとも言う この寺の寺紋は北条氏の三っ鱗紋である
下左 蚶満寺山門  下右 本堂手前位牌堂神宮皇后とその子応神天皇を抱く武内宿祢像

紅連尼の碑 九十九島蚶満寺境内
内容は読めませんでしたが象潟と松島は夫婦町の協定を結んでます
   象潟 其の4        
上左  芭蕉像 
6月15日酒田発つが途中土砂降りに遭い吹浦で一泊し翌16日女鹿・三崎・小砂川の難所を通り噂の有耶無耶の関を過ぎて昼には象潟に着いた  そして17日には蚶満寺を初め島々を見て歩き18日は再度酒田へ向かうのです その健脚振りには驚く
 ここ蚶満寺島に渡る芭蕉がこの石に舟を繋ぎとめた 象潟の史跡・遺跡は殆どが蚶満寺境内にあり40分もあれば神功皇后から芭蕉までの歴史に触れられる
 芭蕉像の向にある西施の碑 中国四大美人 象潟では西施と合歓の花は切り離せない
 北条時頼公御手植えのつつじ
象潟と 思ひし程は いそがれて 
        帰る涙に 袖ぞぬれぬる
嘉禄3年鎌倉時代の武将で時氏の子 寛元4年鎌倉幕府第5代執権となる 宝治元年宝治の合戦で三浦氏を滅ぼした 建長元年には裁判制度を改革して引付衆を設ける 康元元年出家して最明殿と呼ばれた 後に諸国回国伝説が生まれる元となた 弘長3年37歳で没す 
 
謡曲鉢の木でその善政の名君と言われる5代目執権北条時頼は僧に変装して諸国を巡回して地方を視察して貧困の民に救済の手を差しのべたと言い伝えられているがこの出羽にまで来たのでしょう ここ象潟に来てその景色に感激し久しく留まり数多くの詠歌を残したのです 右は樹齢700年超の頼時公お手植えの躑躅です 彼は鎌倉へ帰っても寺塔を修理し神功皇后縁の地として四霊の地と定め禁断殺生の令を宣し目通り20町歩の土地を寄進して信ずる禅宗に改め蚶満寺の再興を図ったと云うのです そして象潟一円寺領として朱印を与え記念としてこの躑躅を植え十種の歌を奉納したと云う 北条時頼は蚶満寺中興の祖なのです