錦木は 立ててぞともに 朽ちにける 狭布の細布 胸あはじとや           能因法師集 能因
陸奥の 狭布の細布 ほどせばみ 胸あひがたき 恋もするかな          俊頼髄脳 源 俊頼
錦木に かきそへてこそ 言の葉も 思ひそめつる 色は見ゆらめ       夫木和歌集 藤原顕昭
たて初めて あふ日をまちし 錦木の あまりつれなき 人心かな
                小侍従
人知れぬ 心に立つる 錦木の 朽ちぬる色や 袖に見ゆらん         新後選和歌集 前大納言隆房
世とともに 胸あひがたき わが恋の たぐひもつらき 狭布の細布        新拾遺和歌集 伏見院
石文の 狭布のせばぬの はつはつに あひ見てもなほ あかぬけさかな      堀河百首 仲実
錦木の 千束の数に けふみちて 狭布の細布 胸やあふべき                藤原俊成
錦木は 千束になりぬ 今こそは 人に知られぬ 閨の内見め            俊頼髄脳  源 俊頼
あらてくむ 門に立てたる 錦木は とらずはとらず 我や苦しき             俊頼髄脳 源 俊頼
錦木の 朽ちし昔を 思ひいで 俤にたつ 橋のもみじ葉
                   西行
細布の 胸あはざりし いにしへを 問へばはたおる 虫ぞ鳴くなり             西行
立てそめて かへる心は 錦木の 千束まつべき 心ちこそせね             山家集 西行
錦木を 心のうちに 立ち初めて 朽ちぬるほどは 袖ぞ知りぬる            寂連法師集 寂連
陸奥の 狭布のさぬのの ほどせばみ 未だ胸あはぬ 恋もするかな    古今和歌六帖 詠み人知らず
錦木に かきそへてこそ 言の葉も 思ひそめつる 色はみゆらめ           六百番歌合 顕昭
錦木の 千束のかずに けふみちて 狭布の細布 胸やあふべ         夫木和歌集 皇太后宮俊成卿
思ひかね 狭布たてそむる 錦木の 千束もまたで 逢ふよしもかな       後葉和歌集 大倉卿匡房
いたづらに 千束朽ちにし 錦木を 猶こりすまに 思ひたつかな          詞花和歌集 藤原永実
音にきく 狭布の細布 着てみんと おもひにむせふ 胸もあくや               三条西実隆
いはねども 思ひそめてき 錦木の はひさす色に 出やしなまし           堀河院百首 藤原仲実
錦木の 千束の数は 立ててしを なと逢う事の いまだた              堀河院百首 藤原顕仲
おもいかね けふ立てそめる 錦木の 千束もまたで あふよ            
詞花和歌集 大蔵卿匡房
うき名をや 猶たてそへむ 錦木の 千束に余る 人のつらさに         
新後撰和歌集 花山院内大臣
いたづらに 千束朽ちにし 錦木を なほこりずまに おもひたつか         
詞花和歌集 藤原 永実
陸奥に 狭布の郡に おるぬのの せばきは人の 心なりけり              
 新撰和歌六帖
或物に云ふ。えびすは女をよばふとては、一尺許りなる木にて、錦のやうにいろどりて女のかどに立つれば、うけひく女はこれをとりいる。あはじと思ふはとり入れねば、なほしいて思ふには、三年をかぎりて日ごとにひとつをたつ。千束(ちづか)になりぬれば、こころざしありと見てあひぬ。なほそれにもあはぬ女をば思ひたえぬといへり。錦のやうにいろどりたれば、にしきゞと云ふ。(藤原 清輔 奥義抄)

希布の細布(けふのせばぬの)
『狭布の由来は陸奥の辺土の土人の庸調におこる物とす』と大日本地名辞典(吉田東伍)に有るが『租庸調』と言えば大化の改新(645年)による律令制度に於ける近代的?税制で「祖」は稲「庸」は労働「調」は布を始めとする地方の特産品の事である つまり『狭布の細布』はここ鹿角毛馬内の特産品だった 類聚三代格巻18貞観17年(875)5月15日条には『太政官符として出羽の国でに支給する禄の量を1年間に狭布1万端と定める』とあり大変興味深い 『けふの細布とは陸奥に出る幅狭き布也 せばければ狭布と書きてやがて声に「けふ」とよみて訓には「せばぬの』と読む也 其の声訓合わせて『けふの細(せば)布』と呼ぶ也(袖中抄) 此けふの細布と云は陸奥に鳥の毛にて織りける布也 多からぬ物にて織る布なればはたはりも狭くひろも短かければ上に着る事はなく小袖などのように下に着る也 されば背ばかり隠して胸まではかからぬ由を詠むなり(無名抄) つまりここの布は高級品なので機織の規格より幅も狭く丈も短かめだったのだ 都での人気商品だったのだろう 古来多くの文人墨客に詠まれ能作者世阿弥には謡曲「錦木」で演じられ石川啄木も鹿角の国を懐ふの歌で「青垣山を綾らせる 天さかる鹿角の国をおもほへば 涙し流れる・・・・」と長々し詩を書いている 平泉の藤原基衡が仏師雲慶に送った珍品のなかに「希婦細布2千反」とある 希婦は狭布のことで鹿角一帯を意味している 特に毛馬内地方はその産地だったと言う 昔から此の辺りは横幅の狭い布を織り出して名産としていた 鳥の羽とも兎の毛とも云われる物を織り込んでいて都で重宝された 幅が短いので着物にしても両幅が胸まで届かない事から『男女の恋が成就し難い事を胸あわじとや』と詠んだのです
左 けふのほそぬの(せばぬの) 狭布の細布 毛布の細布とも書かれ呼び名も難しい 大正初期に花輪村の某氏が保存していたものが展示されていた






 錦木塚
狭布の里