北前船祈願所円覚寺 西津軽郡深浦町
円覚寺は大同2年(807)田村麻呂開基と伝える県内屈指の古刹である 別名澗口(まぐち)観音と呼ばれるが澗(かん)の意味がはっきりしない 新漢和辞典(大修館書店)や新明解漢和辞典(三省堂)では谷川とか谷川の水となっている どうもまぐちの意味が分からない 又髷額にある髷の小さいのにはびっくりした だからちょん髷と云うのだろうが テレビの時代劇の立派な髷は嘘で実際はずっと小さく貧弱な物だった様だ  日本最古かつ唯一の重文北国船絵馬を始め70点の弁財船絵馬や28点の髷額(国指定重要無形民族文化財)が奉納去れている
春光山円覚寺
 御詠歌

ただ頼め 仏の恵み 深浦の 
     心(うら)安かれと この世後の世
ただ頼め 行く末祈る 深浦の 
        明日の命の ほどは白浪


 実はこの寺の後ろに日和見山(別名後志見山)がある 比羅夫が蝦夷平定の作戦を練った所と伝える

西津軽郡深浦町 吾妻浜全景 
日本書紀に出てくる有間浜の一つとされる 日本書紀に「・・・遂に有間浜に渡嶋の蝦夷等を召し聚えて大きに饗たまいて帰す」とある 見る限り岩ばかりで砂浜は見えないが吾妻川近くのガソリンスタンドの奥さんの話では子供の頃はあの岩の嶋まで綺麗な砂浜だったが海岸線を通る五能線が開通した頃日本海の猛烈な暴風雨と波浪により蒸気機関車が海に転落し運転手が死亡した事故がありそれ以後護岸工事のコンクリートとテトラポットによりすっかり砂浜が消えたしまったそうだ 真偽は兎も角ここで比羅夫が北海道や津輕の蝦夷懐柔するための宴会の模様を想像したとするだけでも楽しい
上 南部右京太夫大浦(津軽)光信公廟所 
            西津軽郡鰺ヶ沢町種里
着鎧帯刀の立ち姿で埋葬された光信公廟所には不思議な事に現在まで草一本はえないのです 南部氏出身の光信公本人は南部右京太夫を名乗っていたにもかかわらず後年為信以降は南部氏との確執から南部を名乗らず平泉藤原秀衡の弟秀栄が十三湊に居住しその11代目が光信公であるとしている その資料によると久慈城は長内川河口から上流6kmの丘陵で種里城は赤石川河口から上流8kmにありその地形は酷似している
 種里城は延徳3年(1491)に南部光信が安東氏に備えるためにこの種里に派遣され築城したのに始まる


深浦町は安東氏の南の守りの拠点であり 江戸藩政時代は「風待ち湊」として北前船で上方の文化と蝦夷地の物資が行きかった流通商業で賑わった湊で澗口観音とも呼ばれ国重要有形民族文化財に指定されている多くの海上信仰資料がある 風待・潮待の湊の賑わいが今も感じられる  山が迫った平地のない狭い湊町だが何処にでもある湊町とはどこか違うのです この湊の雰囲気に歴史の蓄積と陸奥にはない文化の重厚さが匂うのです 漁村の様な湊町だが多数ある国重要文化財・民俗文化財海商高田屋嘉兵衛や深浦文学館縁の太宰治や大町桂月の名のせいでしょうか

上 太宰の宿深浦文学館
深浦文学館は太宰治が宿泊(旧秋田屋旅館)し彼と大町桂月・成田千空を展示してる


   岩木山 其の11