奥の海や えぞが岩屋の 煙だに おもへばなびく 風は吹くらん 新千載和歌集  藤原為相
 






 蝦夷が岩屋











果たしてこの歌の岩屋が東通の岩屋かどうかは定かではない ただえぞが岩屋と云う事で載せました 別名斗南半島とも呼ばれる下北半島の東部最北端が下北郡東通村(旧小田野沢)である。 この半島の上半分が下北郡で下半分が上北郡で少しややこしい。この最果ての地の県道8号沿いにあるのが岩屋である。 どの位辺鄙な所かと言うと東遊雑記(古川古松軒は60歳過ぎて蝦夷地に入った実証の人)に『小田野沢村は大海を東にし浦にて、漸漁家13軒、中々人の往居するという様の所にあらず・・・・・浪打きはの浜辺からうじて往来、道と称すべきにあらず 年々破船あり、船道具は木の葉をちらせし様に、浜一面に有る事にて見る目も哀れを催す・・・・・言語はチンプンカンプンにて十にして二ツ三ツならで解せず すべて御巡検使は盛岡城下より通辞のものを二人附給いしに、此所に於いては、通辞も解し得られざる事のありて大いに笑ひしあり』と通訳がいても通じないほど辺鄙な所だったようだ。又医者の橘南谿の東遊記にも『昔は奥州も半ば蝦夷人の領地なり 猶近き頃まで夷人の住所なりとみえて・・・・又田名部の地方にもヲコベ オホマ シリヤなど其外村々在々の名多くは皆蝦夷詞なり 今にてもウテツなどの辺りは風俗ももやや蝦夷に類して津軽の人も彼等をばエゾ種といひていやしむる事なり・・・・・』とあり目くそ鼻くそを笑う喩えの如く同じ青森人ながら津軽と南部の対立の根深さを垣間見る想いである。ここ岩屋村の謂れについては東通村役場から頂いた資料による岩屋の由来は『本村の東口に岩窟あり、里人称して蝦夷が岩屋お云ふ、即ち長石倉山の北梺に連ねて、岸壁突出する所是なり 洞口の濶さ南は二間、北は五間長十五間、行人常に此洞中を往来す、本村の名称蓋し是に源因あり』と載っている。然し県道6号の海岸線を通っても岩窟は見えない。岩屋の村で聞くにも人通りも無く又いても知る人もいない。5月5日の4時半過ぎは東端の日暮れは早く然も曇りの天候は辺りを薄暗くし、宿泊の地むつ市を考えると十分に捜し得なかったのは残念である。所で新千載和歌集が室町前期の勅撰集で前中納言為相は1263年〜1328年の生涯だが、当時どうしてこの地の果ての『蝦夷が岩屋』を知り得たのか不思議でならない。花の都の貴族の為相が何故最果ての蝦夷が岩屋を詠に得たのだろうか。勿論奥の海は陸奥湾の事である  津軽海峡岩屋の海岸はいかにも最果ての寂しい海岸だ 寒立馬の吹雪にじっと立っている姿は神々しい往古は田名部駒とも呼ばれた 尻屋崎灯台の石碑には本州最涯地尻屋崎と彫られている 尻屋崎は東海第一の難所で灯台は明治4年斗南藩の設置運動が具体化して同9年に竣工した我国最古の洋式灯台 それにしても遠流の会津斗南藩の運動とは凄いですね 
(平成18年5月16日)(参考 大日本地名辞書 吉田東伍・説明板・菅江真澄遊覧記 平凡社・青森県の歴史散歩 且R川出版社) 

易国間海岸は昔異国間ともいわれその昔高麗人が漂着してきてからという地名だと所の人が語った 又この浦にはアイヌ人が住んでいてその子孫が今もいるという(大間から尻屋崎への国道279号沿い)

上中 本州最涯地尻屋崎の碑と尻屋崎灯台
明治9年(1876)竣工の尻屋崎燈台は高さ32..8mで東北最初の燈台で当初は石油で点灯していた 1906年日本発の自家発電の電気式燈台となる その光度は53万カンデラと国内最大級で光達距離は34kmと云う
下左 県天然記念物寒立馬 幸運にも晴天無風の10月8日ではその雄姿の雰囲気は見れない ウイキペディアによると昭和45年尻屋小中学校の岩佐校長が年頭の挨拶に 東雲に 勇いななく 寒立馬 筑紫が原の 嵐ものかは と呼んだのが最初と云う 本来は野放馬と云う
下右 東通り村にあるヒバの埋没林
猿が森県自然環境保全特別地区指定されていて強風の大量の砂の供給による砂丘によって埋もれたとする枯死したヒバ林が特異な情観を呈している