国指定史跡 亀が岡遺跡 つがる市木造町舘岡 
縄文末期の高度な文化で世界に誇る芸術的価値のある多くの優秀品が発掘された ここが有名になったのは津軽藩2代藩主津軽信枚がここに築城工事の際地下から大量の土器が出てきた 徳川三代将軍家光の時代「此処ヨリ寄代ノ瀬戸物ホリ出シ候所ナリ 其形皆々カメノ形ニ御座候 大小は御座候ヘドモ水ヲ入レルカメニテ御z候」と元和9年(1623)古記録永禄日記にある 美しい土器は江戸時代から乱掘され海外にも流出し亀が岡土器の名は世界的に有名となた

上  国重要文化財 平山家母屋と門    五所川原市湊字千鳥
津軽地方五所川原では200年以上経過した最も古いといわれる 当時門は『在々銘々門の口に門立申問敷事』の法度により一般には許可されなかったが大庄屋の平山家は天保元年(1830)に六代平山半左衛門の時津軽十代藩主信順公から特に許可されたもので昭和53年に国指定重要文化財に指定された(説明板)

早朝の岩木山と岩木川 五所川原大橋から
津軽の母なる岩木川はその源を世界遺産の白神山地を源にして中世三津七湊に数えられた十三湊迄津軽平野の真ん中を102km北上する
 津軽に来ると青森は山国では無いと錯覚する程の平地に象徴的に立つのが岩木山である 五所川原大橋から素晴らしい眺めでした 鏡のような水面と岩木山があまりにも美しかった
 ➡ 江戸時代には奇代之瀬戸物として滝沢馬琴等12名の文人による耽奇会では各自が収集した亀ヶ岡土器土偶を持ち寄り品評会を催し珍品として江戸の収集欲を駆り立てたという この様に亀ヶ岡遺跡出土品の価値の高いもの殆どが散財してしまい現在の木造縄文館には地元の方々が採取した出土品が展示されてるだけなのは真に残念でした ここが出土品総てが地元に残った八戸是川遺跡と違う所なのです その中でも有名なのが国重要文化財遮光器土偶土偶で東京国立博物館にある 高さ34.5cm 3000年~2300年前の縄文晩期の作品です(展示室資料・郷土史辞典青森 昌平社)
上 五能線木造駅舎 木造町のマスコットとなった遮光器土偶の木造駅 事情の知らない方にはこの宇宙人の様な異様な駅舎に驚くでしょう 然も列車た到着すると目から青白い光を発するとのことです 夜の列車到着時撮影も面白いでしょう

左 国指定史跡 亀が岡遺跡
 賽の河原自尊堂 五所川原市金木町
 五所川原市金木町にある川倉の地蔵堂 恐山と同じ慈覚大師の開山と伝える 急峻な坂道古道には凡そ2000体の小さな地蔵尊がが立ち並び特に有名な巫女(イタコ)による霊媒は川倉の賽の河原として民間信仰のメッカとして広く津軽地方の尊集を集めたという 金木町の有名な芦野公園の北端にあ(説明板)イタコの口寄せには数万の参詣者つのるという
   津輕 其の4
   
   
 津軽三味線発祥の地の碑 
五所川原市金木町芦野公園内


仁太坊と津軽三味線発祥の地
安政4年(1857)北津軽郡金木新田神原村の岩木川のたもと生まれの本名秋元仁太郎といった 幼くして母をうしない8歳にして失明11歳で父を亡くし天涯孤独の身になった 極貧の盲目の仁太郎を目覚めさせたのがごぜが弾く三味線の音色だった それが坊様(ボサマ)仁太坊となり津軽三味線の始祖となっていくのです ボサマとは津軽では底辺の人々のことでホイド・乞食を意味していた 仁太坊の口癖は『おらァ乞食でねー 芸人だッ』であったという 彼は家々の門付けをしてその日の糧を求めて三味線を弾き続けて歩いたのです 吹雪と玄関先のため大きな音を出すのにバチを強く打つ叩き奏法が津軽の特徴となったという

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