山麓の二人
二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡いて波うち
芒ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草を藉いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれる途無き魂との別離
その不可抗の予感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃として二人をつつむこの天地と一つになつた。高村 光太郎 |
樹下の二人
あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川
かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります
この大きな冬のはじめの野山の中に、あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう
あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、ああ、何といふ幽妙な
愛の海ぞこに人を誘ふことか、ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり
無限の境に烟るものこそ、こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、こんなにも苦渋を身に負ふ私に
爽かな若さの泉を注いでくれる、むしろ魔もののやうに捉へがたい妙に変幻するものですね
あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川
ここはあなたの生れたふるさと、あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫
それでは足をのびのびと投げ出して、このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に
満ちた空気を吸はう。あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい
あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川 高村 光太郎 |