白河の 関は超ゆれど 人見えぬ 人懐かしの 山はいずくぞ         西行
                                                     

『人懐かしの山』は別名木の内山と云う(木は柵・城の内だろうと云われている)。阿武隈川を挟み『人不忘の山』と4〜500mで向かい合っている同じような小山である。曾良旅日記にある二方の山とはこの二つの山を云っているのかもしれない。道を聞いたら偶然にも木野内さんと言う方で、なんと以外にも普段言い慣れている言葉ずかいで『人恋し山』と言った。『人懐かし』を想像していた私には 何の躊躇もなく自然な発言に新鮮な思いをした次第である。『人懐かし』も『人恋し』もどちらも魅力的な言葉である。地元の人にとっては恐らく人恋し山が当たり前なのだろう。白河の関を超え関山の麓を通り阿武隈川を渡り終え 鹿島神社の森と転寝の森を抜けるともう完全に陸奥の国である。八溝山系を越えやっと平になったこの辺りで 都で別れてきた人も恋しく又懐かしく思われる場所ではなかったろうか。この山の麓を通る県道139号線は中島村で県道44号線とぶつかる。ここら辺りが東山道と常陸道の両官道のジャンクション松田駅だったろう。この人懐かし山の麓と阿武隈川の間のこの139号線の拡張工事からその一大発見があった(地元の人談)。有名な関和久郡衙跡(国史跡)である。国の軍事 行政の出先機関である。7世紀中期以降に設置され9世紀前半に最盛期を迎え10世紀後半には廃絶しと云う。当然この辺りに白河軍団約1000名の駐屯地もあったはずである。この軍団から780年の蝦夷砦麻呂の乱にあたり多賀城に44名の弓の名手が派遣された木簡が多賀城跡から発見されたのである。これは本当に凄い事と思う。このあたりは阿武隈川の水運と両岸に人不忘の山と人懐かし山と言う砦として情報収集最適の小山の間の平坦な土地は今 全くその姿は元の畑に埋め戻されてしまってその跡すらない。その跡を示す看板すらないのは寂しい事だ。私有地なので仕方がないとは木野内氏談である。この郡衙脇を通る東山道を敵国東国の鄙 辺鄙 田舎 夷 毛人 化外 更には土蜘蛛等 陸奥の先住民を最大級の侮辱的表現をもって 征東 征夷 征荻の名のもと何人の征東将軍 鎮守将軍 鎮東将軍 征夷大将軍などの名目で天皇から大義名分としての節刀を受け蝦夷征伐に通り過ぎたことだろうか。領土拡張の犠牲になった蝦夷にとって真に迷惑千万な人々であった。因みに初代征夷大将軍は大伴弟麻呂 二代目が坂上田村麻呂である。弟麻呂も田村麻呂もみんなここの郡衙で何泊かし この関和久の道を通過した事だろう。私が彼らと同じ所に立っているのは夢のようだ
(平成14年6月24日)(参考 白河ノ関 金子誠三 福島県の歴史 平凡社 征夷大将軍 高橋富雄) 
 
白川軍団兵士像
  大和朝廷下の国府や郡衙には当時祖・庸・調と呼ばれ物納された税を納める倉が有ました それを屯倉(ミヤケ)と呼ばれたが後には倉のみならず直轄経営する土地も含めて屯倉或は正倉と称された 石背國関和久郡衙の廻りにもきっとこのような屯倉が幾つもあったことでしょう 県文化センター白河館にある 陸奥には名取・玉造・小田・白河・行方・安積・磐城の7軍団があり白河軍団は神亀5年(728)に新設された 大毅・少毅・校尉・旅帥・隊正・火長・伍長の階級の下に1000名の兵士が軍団を形成していた

 近年多賀城から軍団に関する木簡や漆紙文書が何点も出土したのです その中に白河軍団が多賀城に射手を貢進したものがありその表側には総数44名と火長の名前があった 裏側には射手の名前がしるされていたのです 又火長の名前は「神人味人(みわひとのあじひと)」とあり 又別の木簡には安積軍団の役人が多賀城に出した上申書で会津郡の兵士が当番勤務が終わったので玉前関を越えて会津に帰ると言うものです 何と古代が生々しく蘇ってくるではありませんか

人懐かしの山

   阿武隈川の対岸南からの人懐かし山 この山の周りや前には関和久郡衙遺跡をはじめ関和久上町遺跡・舟田中道遺跡・下総塚古墳・谷地久保古墳・借宿廃寺跡遺跡野地久保古墳・観音山横穴墓群・関和久窯跡等古代遺跡が密集してるのです  左の小山が人忘れずの山 右の小山が人懐かしの山 その真ん中を流れるのが阿武隈川 関和久郡衙 白河軍団跡地に相応しい地形だ
上右 当時は一戸から一人21歳から60歳まで武器・食料は自前で徴兵義務があった この絵の射手44名がここ関和久郡衙から蝦夷との戦いに多賀城へ出兵した
  ガイドブックをコピーした 

手前の畑全部を含めて関和久郡衙跡 発掘跡は総てこのような元の状態に戻されその全容を見ることは困難だ 郡衙跡が復元されたら素晴らしい  奥に見えるる山が人懐かしの山 この山は別名木内山だがそれは古代の柵(き)の内に由来するかも知れない  この辺に数十棟の正倉や官衙(庁舎)・厨・館・厩等があり17郷からなる白河郡は陸奥・出羽最大の郡だったのでさぞかし大きな郡衙だったにちがいない
  大網本廟跡 浄土真宗親鸞の孫 如信廟所と言う この県道139号線には 関和神社とか関和上 関和四辻とうの地名がある この道を古来多くの人々が多賀城を目指し 蝦夷を追い詰めていった事だろう