小鶴の池
千歳をば 雛にてのみや 過ごすらん 小鶴の池と 聞きてて久しき 重之集 源 重之(父)
千歳ふる 小鶴が池し 変はらねば 親の齡ひを おもひこそやれ 重之集 源 宗親(子)
不意打ちと云おうか 意外にもと言いましょうか 小鶴の池が福島県原町市(現南相馬市)にあるとは今まで頭になく ずっと宮城県仙台市原町の北部にある岩切とばかり思っていたのだが奥州相馬の本に載っていて福島原町説もある事を知りました。著者の森鎮雄氏(鹿島在住)にお電話で伺ったが十分に要領を得る事が出来なかった。所でここ原町市の小鶴の池は鶴谷旧6号線を東に500mばかりの田んぼ中にある。昔太田の鶴谷は一面の沼地で大沢村と呼ばれていたという。その中ほどに小鶴が池があったといのだが一見しては池も枯れ今や人工的でかつ小さすぎて歌枕の雰囲気がない。これも後世の補場整備のためだろうか。神社の土地も正方形に整理され余りその古さを感じられないのがチョッピリ残念である。鶴の卵を孵そうと大切にしていた善良な行徳とそれをゆで卵にしてしまった真門という悪戯者の伝承である。その後幾つかの逸話を経て村人が松の根本に祠を建てたのが小鶴神社と云う。 重之は福島県安達郡に居を構えていたとの説もあり 又陸奥で亡くなり耶麻の郡(磐梯町)の歌も詠んでいるので行方の郡(原町市)を詠んでもおかしくはないが余りに日当たりがよく1000年超の歴史を感じ取れないのが悔しい所だ。吉田東伍氏の大日本地名辞書では『行方郡に歌名所を引くは信け難しと雖も御名の遺れるに因りてかかる附会も生じむ』と宮城県説を説いている。重之は36歌仙の一人だが藤原氏専権時代に官途が開けず生涯不遇をかこった。書によると『官界を去り長徳元年陸奥守となった中将実方を頼り筑紫・陸奥へと旅を続け、目をかけていた陸奥守源 信明や歌友平 兼盛等と共に、古くは大伴 家持以来の歌人にとって憧れ・寂しみ・不遇感・隠匿感の交じりあった感慨で深く東国に馴染んでゆくが、皇族の血を引く身のため客地漂泊の感が強く埋れ木・花咲かぬ木と自己を嘆き・恨みが心底深くよどんでいる』と書いている。又『生年不明・長保2年(1000)於奥州卒とあり晩年は陸奥に子を同伴し、共に寒冷地の苦労を歌を詠み合い慰め合う。東遊西流・漂泊の歌人として東は陸奥衣川、出羽象潟、北は信州伊那・浅間山、加賀白山、 西は九州肥後鼓の浦までこれ程の巡遊吟行のわかんどおり(皇族の血統)は当時はいない』とある。お蔭で不確実ではあるが福島県の伊達郡梁川町にもいたらしく
陸奥の柳川(梁川)の家にてかみくにもちなどして七月七日に七夕の心をよめる
たつとこそ おもひやらるれ 七夕の あけ行く空の あまのは衣
と詠んでいる。 面白いのは親友の平兼盛は遠く陸奥安達郡衙にいる重之とその娘に恋の歌を送っている
陸奥の 安達が原の 黒塚に 鬼こもれリと 聞くはまことか 拾遺和歌集
「といひたりけり。かくて『その娘をえむ』といひければ、親『未だいと若くなむある。いまさるべからむ折にを』といひければ・・・」と大和物語にある。辺境陸奥を深窓に例え顔の見えない娘を岩屋に隠れる鬼(深窓の令嬢の喩)にかこつけた洒落の歌だろう。この歌により本物の奥州陸奥鬼婆伝説(二本松市安達が原の黒塚)が更に一層都の人々への関心を広げたという。(平成14年7月30日)(参考 重之集子の僧の集重之女集全釈. 兜頼ヤ書房・相馬の歴史と民俗から 弘文堂書店)
右上 子鶴神社 池はあるけど水はない
右 重之・宗親の彫られた歌碑 親子説・兄弟説があると云う
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