世の中の 人には葛の松原と 呼ばるる名こそ 嬉かりけり 夫木和歌集 僧都覚英
月日のみ ただいたずらに 送り来て 身の愚かさを 葛の松原 松平 定信  
亡き跡も 名こそ朽ちせぬ 世をかけて 忍ぶ昔の 葛の松原   河原 栄機
                                         

福島の北部 陸奥の名湯飯坂温泉から宮城県境の芭蕉の言う伊達の大木戸へ抜ける現県道124号線桑折町にある。この道は半分ほどは改良されていて趣は薄れたが ここ歌枕の地松原寺の前はまだ未整備で曲がりくねりかすかに往時の面影を残している。前夜飯坂で眠れぬ夜を過ごした不機嫌な芭蕉も馬に揺られこの前の道を通ったのです。そのせいでもあるまいが彼は一言もここを記載していないのも面白い。奈良興福寺の学僧 権少僧都覚英が1157年に創建したと言う無名の歌枕だが、この地で生涯を終えた彼は何と藤原摂関家師通の4男と言う公卿さんには驚きです。20歳の折衣一重のまま旅立ち行方知れずの長い旅路の果てに誰にも看取る者もなく寂しく死んでいったのです。師通は妻全子(またこ)とは仮面夫婦で全子は実父藤原俊家の絵の前で夫師通を呪い続けていたという。そのせいか師通の息子忠実親子(忠通・頼長)も不仲で保元の乱では親子兄弟別れて相争うのである。ここから眺める信達盆地と裏信夫山は絶景である。然し私がもっと感動するのはこの地点から、古代に東山道、中世に奥大道、そして近世には奥州街道と呼ばれて、西行を始め幾多の文人墨客も歩いた道がこの真下を通り、更にそのすぐ南には対照的に超近代的東北自動車道と東北新幹線が見える事です(平成14年2月15日)(神社説明板・保元平治の乱を読み直す 日本放送出版協会・福島市史) 
 

葛の松原碑
 上 信達16番札所松原法明寺観世音

 松原寺より見た信達盆地 左上東北新幹線 中に東北自動車道 真中下に飯坂から伊達大木戸へ抜ける街道がある 芭蕉 も西行も歩いた道であるが平成21年には新しく広い道路出来ている 
   正岡子規も立ち寄って 
     人くずの 身は死にもせず 夏寒し  
 と詠んでいる
      葛の松原
松原寺の松の文字が個性的である  保延3年(1137)東大寺で具足戒を受け将来を嘱望された若き覚英は道を求めて全国行脚の旅に出たが何時のころからかここ陸奥信夫郡葛の松原に錫を留めこの地を仏法有縁の地と定め行乞三昧に勤めていたが保元2年(1157)41歳で入滅した その600年後福島潘主板倉公の重臣河原栄機は覚英の事蹟を知って明和5年(1768)に右の碑を建てたのです 碑には上の2つの歌が彫られている 福島でもこの碑を知る人はどれだけいいるだろうか