ごらんの様に真に錚錚たる歴史的スター達によって詠まれた歌枕の地なのです。太政官符承和2年(835)12月3日の条に『陸奥国の称するに旧記を倹するに関を置いて以来今に四百余歳なり』とあり、又延暦4年(799)12月10日のそれには『白河・菊多関守は60人で官位待遇の散位である』とある。この関のPRに貢献しているのは武神ともよばれ殊に陸奥に於いて人気の高い義家の一首でしょう。彼は各地に逸話や故事が残って神社や祠は枚挙にいとまがない。ただ水をさすようだが、確かに平泉文化100年の土台となる後三年の役完結の立役者ではあるが、私闘であるとの理由で朝廷がその恩賞の要求を断ると彼は家衡、武衡等清原一族の首を道端に捨ててまったとの逸話が残っている。武神ならばたとえ敵の首でも、ねんごろに葬るのがたしなみとは思うのだが。人格の一端を垣間見た気がするのは私だけでしょうか? この関の名も場所も現在地は文学上のもので正式な関は菊多関とあり勿来と統一表記されるようになったのは明治30年の鉄道駅名以降でそれまでは奈古曽とも記したそうでその遺構も出土品や関跡も未発見の幻の関なのです。歴史的・学術的にも現勿来の関の様に狭い山の尾根に関がある例は無いとの事である。それについてはいわき市史には極めて示唆に富む記述がある。貞観大地震である。三代実録に貞観11年(869)10月13日の条に『詔曰・・・聞くが如く陸奥国境地震尤も甚だし 或は海水暴溢して患と為り 或は城宇頽圧して殃を致す。 百姓いづくんぞ辜や 斯く禍毒に罹り憮然として?懼責深く予に在り』とある つまり地震の被害が一番酷かったのは陸奥との国境だと書いてあるのです。現国道6号線も関山下の海岸線すれすれに通っている。茨城県と福島県の海岸線は実に単調な海岸線だがここ県境だけが断崖絶壁でリアス式海岸を形成している これは何を意味するのでしょうか?貞観大地震による崩壊にほかならないのです。山頂を関とする関路は有り得ない事を考えれば、古代浜街道はずっと海岸渕寄りで関も海辺にあり、未曾有の大地震による大津波が菊多の関を跡形もなく押し流したから現在に至るまでその痕跡が発見できないのです。然も翌貞観12年(870)6月2日の条には菊多の郡人大部継麿と大部浜成等男女21人がある功績により湯座菊多臣の姓を賜った記述があるのです。この未曾有の大震災時の功積と言えば罹災民の救済、新しい新道の開削それと新しい菊多関の新設以外に考えられません。その新関は西よりの常陸多珂郡関本から菊多郡酒井郷を通る山道だろうと記している。そうすると新しい関は現在の勿来の関辺りになるがその10年後の元慶4年(880)9月5日の太政官符には『昨今の関門は遊蕩の輩が自由に出入りしている。厳重に監視せよ』との陸奥守小野後生が指示している。然しそれ以前の弘仁2年(811)には浜街道十駅が廃止され事実上官道は格下げされていたのである。 |
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その為このころから関の禁や規律が緩み関門の目的が達せられなくなって名ばかりの関になったようだ。
なこそ世に 勿来の関は 行くかふと
人も咎めず 名のみなりけり 源 信明(910-970)
つまり廃関同様になったのでしょう。以来菊多関の公式記録は姿を消し900年前後以降は文学上の勿来関となるのである。知的集団である福島第一原子力発電所も目と鼻の先にあった教訓を生かせなかったのはまことに人間共通の弱点であった。いわき地方は陸奥的性格と脱陸奥型(関東型)性格有する特異な地域なのです。常陸風土記ではいわき地方は常陸国の一部で国造本紀には海岸沿いに道口岐閉(みちのくちきべ・現日立助川)・多珂・道奥菊多(勿来)・石城・道尻岐閉(みちのしりきべ・大熊町)・染羽(標葉)・浮田(宇多・行方)・伊具(亘理)の各国造(豪族)が記載されている その内現双葉郡大熊町熊川(苦痲川)辺りまでが坂東(関東圏)に属していたのです。 いわきは大化改新(645)までは茨城県多珂国造郡に属していたが、あまりにも遠く 広く 不便との理由でしょうか白雉4年(653)年多珂評と石城評にわけた とある。そして石城の評は今陸奥の國の堺の内にありと実に具体的に記載されているが菊多評は未だ多珂郡に属していたのです。そしてその後養老2年(718)年続日本紀によると陸奥国から石背国と石城国の両国を独立させる時、陸奥国から石城、標葉、行方、宇多、亘理の5郡と常陸の国多珂の郡から菊多郷を割いて石城国としたとある。つまりこの時初めて菊多(現勿来)が陸奥になったのである。そして更にその僅か8年後再び石背・石城国は解体され陸奥の国に再編入される事になるのである。ここで初めて勿来が完全に関東から東北に属した事になる。つまり勿来(菊多)は最後まで茨城県だったのであるがこの事実は、大和政権がいわき地方を含めた福島県を陸奥的か脱陸奥的で行政単位に迷いを生じた証拠ではないでしょうか。この著名な勿来の関の証は茨城県側県境の地名がそれを物語る。北茨木市のいわき市との境には実に関本町を冠にした字名が多いのです。関本上・関本中・関本下・関本町富士丘・関本町八反・関本町福田更に関南町神岡下・関南町関本下・関南下神岡上・関南町仁井田等である。何故北茨木市は関に拘るのでしょうか?勿来の関は本来わが県だったといわんばかりです。勿論福島県側にも関田等の地名は有るが確かに関本町から見る勿来は、いかにもこれから化外の地 蝦夷の国 陸奥に入るような雰囲気があるのです。筑波山以外殆ど平坦で、広々と明るい千葉・茨城から来るとこの県境の100mにも満たない丘陵が凄く厳しく見えたに違いない。今この丘陵はゴルフ場で昔の面影は無いが国魂神社の宮司さんによると子供の頃は沢山石碑、板碑や史跡があったそうです、勿来はいつも想像を掻き立てる地なのです。(平成24年1月1日)(参考 勿来の歩み いわき市勿来関文学歴史館資料・白河市史・東北のふしぎ探訪 無明舎出版・いわき市史・大日本地名辞書 富山房) |
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