司馬遼太郎の言う「懸想と征夷」の入り口 それが白河の関である。枕草子で51段「はるかなる物」に「加行・別行・精進・潔斎の修養、生まれたる児の大人になるほど、大般若の読経ひとりしてよみはじめたる、陸奥へ行く人逢坂越ゆるほど、女業成就の程・・・」等とあり其の例えのユニークさに清少納言の個性を垣間見る。歌学書で能因歌枕は『関をよまばあふ坂の関・白河の関・衣の関・ふはの関など詠むべし』とある。西行も『・・・関に入て、信夫と申辺り、あらぬ世のことに覚えてあはれなり。都出し日数思ひ続けられて、霞とともに と侍ることの跡辿りて詣で来にける心ひとつに思ひしられて・・・』と能因の足跡を偲び未だ見ぬ陸奥への感慨を述べている。はるかなる陸奥の入り口が白河の関なのだ。関の西 つまり関西の語源である律令3関は『不破の関 鈴鹿の関 愛発の関』である。奥州3関は『白河の関 勿来の関 念珠が関』である。然しその目的は全く違う。前者は壬申の乱でも分かるように内憂としての畿内防衛 首都圏防衛が目的だが 後者は外患としての辺境 蝦夷国境を閉鎖し、侵入南下を監視する最前線軍事基地としての柵であった。白河の関の設置は凡そ西暦400年前後と言われている。あれからもう1600年経過し その機能を終えて凡そ1100年以上経ってもこの白河の関程心に迫ってくるものはない。陸奥奥州の関門として良かれ悪しかれ白河の関はその代名詞であった。それは勿来の関でも念珠の関でもないのである。『白河以北一山百文』といわれ 近代明治以降も奥州軽視 蔑視は延々と生き続けた発端は有史と共に古いのである。その良い例として隣国の茨城県の常陸の国、栃木県の下野国、群馬県の上野の國等は現在の領域と余り違いは無く、越の国と呼ばれた北陸は現在の石川県・富山県・新潟県の3県に亘るだけだが陸奥の國は東北六県一纏めにした広大な領域(しかも青森などは領域の版図に入ってもいない)を考えてみても有っても無くてもよい一山百文の認識しかなかったと言えるのである。西暦100年ごろ東方巡視の武内宿禰大臣の景行天皇に対する有名な帰朝報告がある。『東の夷に中に日高見国あり。その国の人、男女並びに椎結け身を文けて、為人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。これを総て蝦夷と曰ふ。亦土地沃壤(こ)えて廣し。撃ちて取りつべし(日本書紀)。』と 又景行天皇が日本武尊に蝦夷征伐を命じた詔にその原型がある。『其の東の夷は 識性(たましい)(あら)び強し。凌(しのぎ)ぎ犯すを宗とす。村に長なく、邑に首勿し。 各封界(さかい)を貪りて並びに相盗略(あいかす)む。亦山に邪しき神有り。郊(のら)に姦(かだま)しき鬼有り。衢(ちまた)に遮り径を塞ぐ。多(さわ)に人を苦びしむ。其の東の夷の中に、蝦夷は是尤(はなはだ)だ強し。男女交わり居て、父子別無し。冬は穴に宿(ね)、夏は樔に住む。毛を衣き血を飲みて、昆弟(このかみおとと)相疑ふ。山に登ること飛ぶ禽の如く、草を行(はし)ること走(に)ぐる獣の如し。恩を承けては忘る。怨みを見ては必ず報ゆ。是を以って 箭を頭髪(たまふさ)に蔵(かく)し、刀を衣の中に佩(は)く。或いは党類を聚めて、辺界を犯す。或いは農桑を伺ひて人民(おおみたから)を略(かす)む。撃てば草に隠る。追えば山に入る。故、往古より以来未だ王化に染(したがはず(日本書紀)』である。 『始めに極悪非道のものども有り』なのである。 中央政府は荒ぶる蝦夷ども 荒ぶる神ども まつろわぬ人ども悪しき人ども 毛人 毛荻 夷 荻 俘囚 夷俘 田夷 山夷等と 何らいわれの無いあらゆる侮辱的表現を駆使して一方的に蝦夷を悪人 劣等 恐ろしい鬼人に仕立て上げた。 その為の正義の防衛基地が白河の関だったのである。以来何ら変わることなく延々とこの関を境に 日本民族には潜在的に東北蔑視・偏見の意識が蓄積し続けてきたと思はれる。今だって場所によっては東北弁は冷笑の対象だし東北人自身も東北人である事を卑下するきらいがるのもそのDNAのなせる技かも知れない。白河の関以北の東北は東京から見れば田舎だが都・上方からの遠望は坂東が田舎で陸奥は漠としていて詠まれる歌の地のイメージのみが膨らんでいただけの地であった。哀愁 郷愁 エキゾチィシズム ノスタルジー 異郷 憧憬等渾然として都・上方の心にひっかっかるようになり数多くの歌に詠まれる様になったのではないだろうか。白河の関はえもいわれぬ感傷を以って永遠に陸奥の道標であるのです。(平成14年6月30日)
(参考 蝦夷 中公新書  白河市史 和泉式部集・和泉式部続集 岩波文庫 白河関史記 白河関跡保存会 写真で見る白坂の歴史 歴史春秋社 清少納言枕草子抄 株日本図書 丹羽長重と小峰城 白河歴史民俗資料館) 

従二位の杉 
高さ50m・胴回り7m 秋田県の日本一を誇る天然秋田杉(きみまち杉)の58mにも遜色ない大木である
凡そ800年前に従二位宮内卿藤原家隆(1158〜1237)が手植えし白河神社に奉納した杉と云う 彼は私歌集壬二集の作者のほか各勅撰和歌集に281首も治めれれている歌人だ 福島県の歌も勿論詠んでいる
白河の 関のしら地の からにしき 
      月にふきしく 夜半の木枯らし

君が代に あふくま川の むもれ木も 
       氷の下に 春をまちけり
 
二所の関はここ国道294号で正に県境になってるが古関跡は白河の関で県道76号線上で県境からずっと白河よりにある 白河の関祉と二所ノ関祉は全く別々なのです

白河の関 其の2