等夜の野に 兎狙はり をさをさも 寝なへ児ゆゑに 母に嘖はえ
                           万葉集巻14-3529 東歌
奥の 信夫の鷹の 鳥谷ごもり かりにもしらじ 思ふ心は
                           古今和歌集 中務卿親王

上の有名な歌集に無名の里 鳥谷野が載せられている事を知る人は少ない。然も万葉集4500首の中で兎はこれ一首のみと言う貴重なものだ 。兎とは彼女の事で 夜這いが母親に見つかり怒られた歌らしい。何時の時代も男と女と親との関係は変わらないものだ7〜9世紀頃既に他の有名な陸奥の歌枕同様この地も少なからず都の人々にも知られていたのでしょう。然し現在それを裏つける史跡、遺跡、逸話があるわけでは無いので確証は無いらしい。ただ近くには延暦元年(781年)常陸国より分祀された鹿島神社と811年に一比丘が創建したと伝える黒岩虚空蔵堂(満願寺縁起)がある。地元の郷土史家の羽田 稔氏によると当時の東山道は八丁目(現松川町)から二手に分かれていたそうだ。一つは松川町関屋の福島大学西側を通り有名な石那坂(頼朝と湯の庄司 佐藤基治の古戦場)から杉妻乳児塚を経て信夫の渡しまでと、一つは田沢、黒岩虚空蔵、宮ノ下、八郎内、そして阿武隈川沿いを上り信夫の渡しまでの二本のルートである。その阿武隈川沿いこそこの歌枕の地、現鳥谷野なのだ。そう云えば羽田氏は 現在の旧4号国道は豊臣秀吉以降のもので、基治が濁川に堰を造るまで鳥谷野は米は出来なかったと言っていた。当時は狩猟としての鳥や兎の宝庫だったのかも知れない。水量も多い当時の阿武隈川は阿武隈山系麓と奇岩怪石の黒岩虚空蔵の下を滔々と流れ、多賀城に下る都人の脳裏にその景観が焼きついたのではないだろうか?(平成14年6月24日)(参考 万葉集 山本健吉) 
 
福島市史跡名勝黒岩虚空蔵と満願寺 
虚空蔵様は丑寅虚空蔵ともいわれ十三詣りの聖地として子供の成長と学業成就をいのる庶民の信仰を集めている ここから見下ろす阿武隈川は絶景である
下右 正一位春日神社  案内板によると『人皇50代桓武天皇の御世延暦7年(788)陸奥按擦使丹治比宇美公が詔勅を奉じて下向した際にこの地に奉斉した伝えられ長年にわたり当地方の守護神として尊宗されてきた』とある そういえば神社のある鳥谷野の地には丹治姓が多いのは偶然でしょうか? 
 延喜式内社正一位鹿島神社1200年以上の歴史の割には古色蒼然たる風格がないのは残念だ
郷里の古歌の碑 鹿島神社境内 鎮座は延暦元年(782)常陸国鹿島神宮より分祀した 式内社信夫五社の一つである 続日本紀巻37には「按ずるに桓武天皇延暦元年壬戌五日 常陸国言祈祷鹿島神宮討はつ凶賊神験非虚望寛位封奉格勲五等封戸云々」とある 元明2(1782)年光各天皇の御世勅宣奉受し正一位を賜るとある(案内板より)
   山崎地蔵菩薩堂 
案内柱には『征夷大将軍坂上田村麻呂の家臣副将軍(山中大納言植久)の念持仏を大同2年(807)に房の内に安置したと伝えている 本尊は延命子安地蔵 陰暦6月24日例祭』と書いてある  近距離に桓武天皇・坂上田村麻呂・按擦使・延暦年間・続日本紀等の単語をみるとこの辺りに東山道が通っていたのではないかと古代への想像を掻き立てる所なのです
等夜の野(鳥谷野)