陸奥の 転寝の森 橋絶へて 稲負せ鳥も 通はざりけり  八雲御抄
      
     白河を立て 矢つぎといへる所へ訪ねきはべり
散る花を ただひと時の 夢と見て 風に驚く 転寝の森 回国雑記 道興准后
                         
     そして200m隣にある鹿島神社の森も情緒たっぷりである
つらくとも 忘れで恋し 鹿島なる 阿武隈川の 逢瀬ありやと 玉葉集 源 順
                             
  鹿島神社の数百m北東に昔桜の名所と言われた桜岡も古歌に歌われた歌名所であると言う
陸奥の 桜の岡の 桜花 散る桜あれば 咲く桜あり  古歌
                            

清少納言はその枕草子の森の沙汰の中で19ほどの森をあげている。『木枯らしの森 立ち聞きの森 戀の森....』とか 歌枕にはユーモラスな森があるが、この『転寝(暇寝)』の名も中々恍けていて面白い。又

  春はただ 花にもらせよ しら川の せきとめずとも 過ぎんものかは
  とめずとも かへらんものか 音にのみ 聞しにこゆる 白川の関

と詠んで文明19年3月白河から八槻へ抜ける准后道興も『いと木ふかき林をなすうたたねの森』などと述べて上の歌を詠んでいる。期待していた私が見た森は実際はたった一本だったのには二度びっくりである。文中にある『耳とどまるこそあやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、何かにつけたるぞ云々.....』そのままなのだ。1000年前も 都近くには名前だけの興ざめする著名な森があったのだろう。ただこの19の中で一番都から離れているのは この『転寝の森 白河』だ。其の次が『こヾゐの森 伊豆』と『木枯らしの森 静岡』であるがそれでも2倍も遠いのである。その歌枕の大部分は畿内にあるのだ。それだけここ白河の転寝の森がいかに都で評判の森であったか想像出来るのである。当時も陸奥は深い森林の国だったろう。其の中でも特に見事な森だったに違いない。すぐ近くに宝亀年間(770〜780年)光仁天皇の御世に祀られ 弘仁2年(811)坂上田村麻呂が常陸国の鹿島大明神を勧請した(鹿島神社栞)延喜式内社がある。その神社の森に往時の片鱗をかすかに具間みることができる。たった200mしか離れていない二つの森は恐らく一体であり 其の間を東山道(現県道139号線)は神社の前を森のトンネルを抜ける様に松田駅家に通じていたのかも知れない。10世紀前後には白河の関の本来の役目は終わっていて 人の心を塞(せ)き隔てる関の哀愁と 蝦夷と言う異郷えのエキゾチシズムが都人を愁殺していた。(参考 白河の関 金子誠三・ 白河市史 白河市)(平成14年6月25日) 

 
 

鎮守府は多賀城から胆沢(岩手県)に移されほぼ陸奥は岩手県まで中央政府の手中に入ってしまったが、ノスタルジーとしての白河の関はその文学上の地位を益々高めていた。だからこそ白河にあるこの森の知名度は高まったのだろう。転寝のネーミングも八幡太郎義家がここで昼寝をしたからと言うが  義家が前9年の役で陸奥に初めて下るのは永承6年(1051年) 清少納言が亡くなったのは1025年頃なので、彼が『まどろむ』以前からここ鹿島の森転寝の森と呼ばれていたと思われるのである。森の隣にはこれも歌枕の阿武隈川が流れ、近くの岡は桜の名所の桜岡 そして少し向こうにはやはり歌枕の人懐かしの山 人忘れずの山と続き都の人々をわくわくさせたに違いないのだ。手の届かぬ遥かなる異国に想像だけが一人歩きするのは十分理解出来る(平成14年6月26日)
  聖護院門跡道興は白河から八槻に向う途中この森をみて『いと木深き林をなす』とあり『慶長ノ頃マデハ方一町余、古木枝幽ケク森々タル』 香取神社の宮地であったが近世には数本の木立となりぬと白河往昔記にはある 義家ならずとも転寝したくなる長閑さである これが転寝の森の名残である  
   転寝(うたたね)の森