矢祭山

心ある 人に見せばや 陸奥の 矢祭山の 秋の紅葉を          伝 西行(歌集不明 町担当者)
見ぬ人に なにを語らん みちのくの 矢祭山の 秋の夕暮れ            徳川光圀公
                                      
矢祭山とはかわった名前である 矢祭町史によると 戦勝を祈願に源 頼義(義家の父)の前9年の役の帰途 《征矢ヲ此地ニ埋メテ祭ル》の故事にもとずくのだそうです。矢祭町は久慈川沿いにある福島県最南端の阿武隈山脈の山間の町である。ここに来ると分かるのだが、矢祭山も久慈川も岩盤が剥き出しなのである。川の底に小石や砂が見当たらないし山も岩が表面に突き出ているのである。つまりここを含め茨城北部から久慈川沿いの東白川郡一帯は、岩盤の背中の上にのかっているようなもなのである。だから日本武尊を初めとする数多くの大和朝廷の東征軍はこの久慈川を登ってきた時、初めてこの景観を見てこの地を石背郡(こおり)、お隣を石城郡(こおり)とな名ずけたに違いないのだ。この名残が現在の岩瀬郡(福島県南部)と磐城市(現いわき市)になっているのだと思う。そう言はれれば観光マップには矢祭山の名の山は無くて、あるのは大だるま岩 大日岩 小だるま岩 屏風岩 猿の階岩 日月岩等である つまりこれらの総称が矢祭山なのでしょう。矢祭山と言う単独の山は無いのかも知れない。この山と久慈川と松の緑と鮎漁 そして春のつつじ 秋の紅葉の見事さはこの地を県指定の公園としているのである(奥久慈県立自然公園)。1000年も前に9年間も戦争で闘っていて疲れ果てているのに、わざわざ頼義がここまで立ち寄るか?とか 900年も前にあの多情で色好みの西行が、さる高貴な方との叶わぬ恋の為に出家したとはいへ何でこんな山奥まで来るのか?とか余りひねくれた考えをせずに素直にこの景色を満喫してほしいものである。
(平成14年6月7日)(参考 矢祭町史 矢祭町 西行 岩波新書)
   上 徳川光圀歌碑 久慈川にかかるあゆつり橋を渡った正面にある

左 矢祭山命名の由来が彫られている碑 
小さくてよく読めないが源 義家の名がみ    える  矢祭山公園

右 西行歌碑 矢祭山公園