上左 村松山虚空蔵堂仁王門(大神宮隣 白雲山小松寺 東茨城郡城里町 烈公徳川斉昭公歌碑(小松寺境内) 武田氏舘 ひたちなか市武田 ひたちなか市武田の地が戦国時代の名将武田信玄で知られる甲斐武田氏の発祥の地とは驚きました 受付のおじさんには眉唾の眼で尋ねたがパンフには立派に市教育委員会の印刷がなされていた 後3年の役で苦戦していた兄八幡太郎義家の助太刀に秋田へ行った帰り道弟新羅三郎義光はここ常陸の国への進出を図り長男義業久慈郡佐竹郷(現常陸太田 後の佐竹氏・三男義清那珂郡武田郷に土着させたのです 所が義清とその子義光父子は地元の豪族との争いが絶えず行き過ぎた行為が朝廷に訴えられその結果父子は甲斐の国配流なったのです 武田姓で甲斐に土着した義清・義光父子は甲斐源氏の土台を築きその17代後に名将武田信玄を輩出したのです(館栞)確かに兄八幡太郎義家の嫡男義国も長男義重が群馬県の新田郷・弟義康が栃木県足利郷に土着させてそれぞれ後の新田氏・足利氏になったのに似ている  
左 烈公御手植えの白梅(村松虚空蔵境内) 重盛は平清盛の長男で文武両道・冷静沈着な重盛には戦前誰もが暗記していた名言がある
忠ならんと欲すれば孝ならず、
      孝ならんと欲すれば忠ならず

と云われてる これは平家打倒をもくろむ鹿ケ谷謀議が発覚して激怒した清盛が時の治天の君後白河天皇を捕縛・幽閉する出陣間際に鎧姿の父清盛に思い留まらせた時の言葉である 治承3年(1179)42歳で亡くなったが養和2年(1182)平貞能はその遺骨と得津禅尼(重盛夫人)を伴ってこの地に落ち延びたのです(説明板) 右の画像に宝居筺塔が見えるが是が重盛の墓かも知れない 他に夫人と貞能の墓もあると説明板には書いてあるが柵があるので中には入れなかった 烈公歌碑には
みやこより ひきし小松の 墓なれば 
       千歳の末も のこるとぞ見る

この碑は天保14年9月10日9代水戸藩主烈公が来訪時重盛公の墓を詣でて詠んだもの 小松寺とは彼が小松内大臣と呼ばれていたから こんな山奥に栄華を極めた平家一門の重盛夫妻の墓があるとは驚きました 
 内大臣平重盛の墓地  皇后の宮を司る権中納言后権太夫源師時の日記長秋記である 寛治元年(1087)から保延2年(1136)に至る約50年間の記録でその中で大治5年12月30日の条に武田冠者義清・清光父子が甲斐の国への配流になった理由が記されている
常陸 U