香島の郡。[東は大海、南は下総と常陸との堺にある安是湖(あぜのみなと)、西は流海(うみ)、北は那賀と香島との堺にある阿多可奈湖(あたかなのみなと)なり。] 古老曰へらく、「難波長柄前大朝馭宇天皇(なにはのながらのとよさきのおほみやにあめのしたをさめたまいしすめらみこと)の世、己酉(つちのとのとり)の年に、大乙上中臣子(なかとみのこ)、大乙下中臣部兎子(なかとみべのうのこ)等、惣領高向太夫(たかむこのまへつきみ)に請ひて、下総国の海上国造の部内(くぬち)、軽野より南の一里(さと)と、那賀国造の部内、寒田より北の五里(さと)とを割きて、別(こと)に神の郡を置きき。其処に有る天の大神社・坂戸社・沼尾社、三処(みところ)を合わせて、惣べて香島の天の大神と称す。因りて郡に名づく。風俗(くにひと)の説に、「霰零(あられふ)る香島の国と曰ふ。」 清(す)めると濁れると糺(あざな)はれ、天地の草昧(ひらくる)より巳前(さき)に、諸神天神(もろもろのかみあまつかみ)、八百万神を天の原に会集(つど)へたまひし時に、諸祖神(もろもろのみおやのかみ)告(の)りて云ひたまひしく、「今、我が御孫命(みまのみこと)の光宅(しら)さむ豊葦原瑞穂の国」といひたまいき。高天原より降り来し大神の名を、香島の天(あめ)の大神と称す。天にては日の香島の宮と号(なづ)け、(くに)にては豊香島の宮と名づく。     (常陸国風土記 且R川出版社)
鹿島郡 鹿島は和名抄、加之未と注し、十八郷に分つ、或は香島に作れり、其地もと、海上国造と那賀国造の部内なりしが、孝徳帝大化五年、海上の一里、那珂の五里を取り、神郡(かんごうり)を建て、以て鹿島神に奉ず、即鹿島郡の初見なり。又そ其名義は、地形に取りしやの疑ありて、古人亦其説ありと雖、那賀国造の祖、建借馬(たけかしま)命は崇神帝の時の人なり。又中臣の祖、大鹿島命は、垂仁帝の時にあたり、其子臣狭山命は、倭武帝に奉仕し、又鹿島神を此地に祭れりと云ふ。(国造本紀・風土記・日本紀・中臣系図) 然らば、鹿島とは、もと天之大神(建甕槌命)の別名にして、那珂国造並びに中臣連の祖なる、両の鹿島命が持斎きたるによりて、ますます世に著しなり、風土記の原注に「香島国にます、天津大御神」とあれど、是れ追書に係る。香島は蓋神名に出でて、人命・地名・郡国名にも移れるものと判知すべし、風土記に「天にて号づけて香島の宮と曰ひ、地にては豊香島の宮と名づく」とあるこそ、其実を得たれ。風土記に大乙上中臣?子とあるは(鎌子)、鎌足にやともいへり。鎌子を当国の人なりと云ふ異伝さへあり。郡領の世に改まりて、天平勝宝中、大領中臣千徳ありて、郡司宮司は代々同姓なる事、類聚三代格に載たり。後大掾平氏吉田清幹が子、鹿島六郎成幹、其子三郎政幹、源右大将家より鹿島社惣追捕使を命ぜられ、子孫天正の末まで盤踞せるは、其始に郡司職を兼摂せしめなるべし。
鹿島神宮 今官幣大社に班し、官民の崇奉旧に仍る。其鎮座の旧辞は、風土記及び国史に概見し、香取神と相並び、東国の名祀たり。古語に豊香島宮又天之大神宮と云ひ、崇神帝の時、大倭国大坂山に示現たまひ、中臣氏の之を奉斎して此地に祭れる由は郡名の下に其説あり。
  我頼 むかしの宮の 瑞垣の 久しくなりぬ 世々の契は          歌枕名寄
  葦原や 天照神の みことうけて 国平げし 神ぞこの神          藤原行朝
  春日野の かすみにうつる 東路の 道の果てより いでし月影      兼好歌集
  あさ日さす 鹿島の杉に 木綿かけて 曇らず照らせ 世をうみの宮    西行集
新志伝、鹿島の祝を中臣氏とす、中臣氏は上古より天地の祭事を掌り、神と人の間の相和す、仍中臣の号あり(鎌足伝)、崇神帝の時、鹿島大神、人に託して曰く、よく我を祀らるれば、天下大に平ならんと、当時この神話を解するものなし、爰に於て中臣の遠祖聞勝命、ひとり其意を解して天子に奉す、帝大に恐れて、太刀鉾弓箭の物奉て、香島神を祭る、遂に天下を平治することを得たり。神護景雲元年、藤原不比等等、鹿島を以て藤家の氏神とし、長途の煩を省かんが為、其霊を分ちて奈良の三笠山に移奉る、此時、太宗の二子、時風・秀行を以て神幸に従うはしむ、今に於いて春日の祀官、中臣植栗連を称するものは、この二子の裔なり。                                                    (大日本地名辞書 坂東 富山房)