津宮河岸跡の常夜灯と香取神社表参道一の鳥居 この辺りの利根川は香取の海と呼ばれ往時は川の中に立っていて浜鳥居と呼ばれた  上左 常夜灯には香取宮とあり明和6年(1769)建立 上右 与謝野晶子歌碑
かきつばた  香取の神の 津宮の 宿屋に登 板の仮橋
正面が常陸利根川 右の中州の向こうが本利根川です 中州を挟んで茨木側が常陸大橋 千葉側が利根川大橋と呼ばれている   利根川大橋はさすがに大河です

 利根川 Ⅷ

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これより以下は茨城県常陸国との境の利根川の南岸である
千葉県上総国にある香取郡東庄町を歩く
 この地は浪曲師2代目玉川勝太郎の
名調子で有名な天保水滸伝発祥(大利根河原の決闘)の地である 又戦前の田端義夫の歌謡曲 大利根月夜や、三波春夫の浪曲歌謡 大利根無情でも知られている

利根川の 川瀬も知らず ただ渡り 波にあふのす 逢へる君かも
万葉集 巻14-3413
  
笹川 入庄醤油  香取郡東庄町笹川2131  昭和60年千葉県銚子市を舞台にしたNHK朝ドラ  澪つくし の撮影現場の醤油工場 陸に生きる醤油屋と海に生きる漁師の相容れぬ壁を越え密かに生まれ恋 とその後の運命を描いた 沢口靖子の初々しい演技が忘れられません 最高視聴率55%を越えおしん次ぐ大ヒットとなる 
 
 上左端  笹川(本名岩瀬)繁蔵の墓 稲荷山正観寺西福院 香取郡東庄町笹川い2280  入庄醤油工場近く 天保水滸伝に侠客と謳われた笹川繁蔵の一族の岩瀬七右衛門家代々の墓とともにある 上左中 笹川繁蔵之墓石には 義大英空信士 弘化4年丁未(1847)7月4日 三男岩瀬繁蔵行年38才 と彫られている 上右中 上右端 笹川繁蔵最期の地に立てられ石碑 繁蔵はこの地で虚無僧に変装した飯岡助五郎の子分3名の闇討ちによって暗殺された
 
上左端 天保水滸伝発祥の地碑(延命寺)  上中左 諏訪神社 香取郡東庄町笹川い580−1 上右中 笹川繁蔵建立の野見宿禰の碑(天保13年7月23日) 彼は神社祭礼の日に農民救済を名目に相撲の元祖の碑を建て大花会を開いた 上州武蔵の大前田英五郎・上州上野の国定忠治・奥州仙台の鈴木忠吉・奥州信夫の常吉・駿州清水の次郎長など関八州の天下の親分衆が多数出席し大盛会だったという 上右端 出羽海部屋夏合宿十周年記念碑 野見宿禰費碑の隣 心技体 出羽の海義和とある 神社境内 
   
上左 史跡 笹川山成蓮院延命寺  香取郡東庄町笹川い597  天保水滸伝で男の華と謳われた正面が笹川繁蔵の碑・右平手造酒の墓・勢力富五郎の碑 侠客3人の菩提寺である  尚昭和に入って銚子で発見された繁蔵の遺骨が埋葬されていると言う 上右 笹川繁蔵勝の勝負石  サイコロ石が博徒らしい
 上左端 勢力富五郎(本名柴田佐助)の碑 江戸で力士だったが故郷に帰り笹川繁蔵一の子分となるも繁蔵の暗殺後宿敵飯岡助五郎を狙ったが関東取締役の追っ手に囲まれ自害する 上中左 平手造酒(本名平田深喜)の墓 北心一刀流千葉周作の門下生 酒がもとで破門され田舎周りの剣術指南などで浪々の身となる 胸の病に犯されながらも繁蔵の客分・用心棒となる 天保15年飯岡一家との大利根河原の決闘で落命した 上中右 延命寺に移される以前に墓地があったところ 平手造酒之墓の後ろにその小さな墓碑がある  上右端 黒部川  
  
上左 2代目浪曲師玉川勝太郎 大利根河原の決闘のイントロ 『利根の川風 たもとにいれて 月に棹さす 高瀬舟』の碑 揮毫は当時の宰相田中角栄 コジュリン公園内 香取郡東庄町笹川地先 背後に黒部川が流れる 上右 大利根川原 公園はこの2つの川の間に有る ここは利根川近代治水工事発祥の地だ  この利根川大橋を渡れば茨城県神栖市であるが利根川大橋入り口交差点まで戻り国道356号を南東に数キロ下ればそこは宿敵飯岡一家の縄張りである旭市になる この碑は丁度東庄町と旭市の中間の利根川河川敷にある
上左 飯岡助五郎(本名石渡助五郎)の墓碑  光台寺 旭市江飯岡1524 中の画像に彼の人となりがありここからも人徳の一部が読み取れる 上右 飯岡助五郎の碑 玉崎神社 旭市飯岡2126-1 実物は巨大で3m近い高さの立派な碑 この画像では玉垣の後ろで見えないが225kgの玉石(力石)が置かれていて持ち上げた高さで賃金を決めたとか 
 
笹川一家に平手造酒・飯岡一家には座頭市 絵に描いたような組み合わせだ 座頭市の居住跡 旭市横根  物語の原作者子母沢寛氏新倉卯之助(この辺りの網元野尻屋生まれで後の鹿島屋旅館主人)から聞いた話として『メカの庫吉』をモデルに物語を作った 座頭市は上州辺りの生まれで甲斐・相模・安房などを流れてこの地野尻屋の網小屋に飯岡助五郎の客分として数年間暮らした実話を参考に書いた と言う それらしき人物はいたのかも知れない 
   笹川繁蔵之首塚 定慶寺 旭市飯岡2110  飯岡一家の陰謀にはかられ繁蔵は死後飯塚助五郎の子分によって首を切り落とされ胴体は行方不明になった 闇討ちについては助五郎の直接指示によるものと助五郎は知らず子分3名の独断専行によるものとの二つの説がある 助五郎は首を飯岡の山林に秘密裏に埋葬し『最も大事な客人の墓』と偽って自身が死ぬまで香華を絶やさなかったという 左の画像は途中見落としたため http://mahoranokaze.comより拝借 したものです

 昭和8年8月14日銚子町が道路整備中に町有墓地で繁蔵の名が彫られた墓石と利根川に投げ捨てられてていた胴体を発見した 首も併せて笹川町に埋葬したいと言う笹川町町長(当時)らの申し出を受けた飯岡町では助五郎が秘密に秘密にしていた首塚を土地の古老の話をもとに翌昭和8年に発見した首の遺骨を譲渡した 同時に助五郎がつけたといわれる繁蔵の戒名『清岩繁勇信士』を刻んだ石碑も発見されておりこちらは現在も旭市の常慶寺に残る 繁蔵はこうして遭難以来86年ぶりに故郷の笹川に戻り延命寺の一角に富五郎と平手造酒の墓石を両脇に控えた場所に葬られた  ウイキペディアより


利根川の 河原を行けば さよ千鳥 石踏む路に をちかへり鳴く     権律師公朝法印