誰ならん いはでの森に 言問はん しめのほかにて 我が名かりけん                  藤原 実方
しばしとも いはでの森の 紅葉ばは 色に出てこそ 人をとめけれ              夫木和歌集  源 俊頼
陸奥の 岩手の森の いはでのみ おもひを告ぐる 人もあらなん                夫木和歌抄 詠み人知れず
わが恋は いはでの森の 下草の みだれてのみも すぐす比かな               土御門院御集  土御門院
おもふこと いはでの杜の ことのはは しのぶる色の 深きをと知れ              続千載和歌集 津守 国基
おもふこと いはでの杜の 郭公 つひにはこゑも いろにいでけり                夫木和歌集 喜多院入道二品

岩手の森
岩手山
を背景にある森 これが岩手の森なのです この森の頂上に鬼の手形のついた岩あるのです 畑で働いていた50代のお母さんの話では『私の子供の頃は木が無くて岩がはっきり見えていた あの頃は子供が多くガキ大将たちが岩の手の石をたたいたり削ったりしたので今でははっきり分からないのでは』と話していた 確かに岩手山の噴火によって出来た焼走り溶岩流(特別天然記念物)は300年経過した今でも草木一本はえない特異な地なのです 当時は森などはとても無かったのでしょが歌は凡そ1000年前のもの きっと豊かな森だった事でしょう
 
 奥の山が石川啄木の故郷の山姫神山 工場の屋根に見える森が岩手の森
俘囚の長安部頼時が支配した奥六郡とは南から胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手の6郡である。歌に読まれた岩手の森は岩手県の森ではなく往時の奥六郡の中の岩手郡にあった森の事でしょう。現盛岡市を含め玉山村・滝沢村・雫石町・葛巻町・岩手町・西根町・松尾村辺り一帯が岩手郡である。現在でも岩手は森と水と山の国であり森の中に町があるのに果たして1000年も前に何処をして岩手の森と指定したのだろうか?真に不思議だ。歌を詠んだ実方は出生不明〜998年・俊頼は1055年〜1124年の人間で夫木和歌集は1350年頃である。所で「啄木のふるさと玉山村散策マップ」には秋田城で蝦夷の氾濫元慶の乱(873年3月元慶2年)が勃発した時、鎮守府将軍小野春風・坂上好蔭が精鋭2000の兵を引き連れこの岩手の森を目印にし七時雨道を越え鹿角から秋田に向かう。 と書いてある。総て森だらけの岩手で古えからそんなに有名な森はどこだろうか?南部叢書(東洋書院)によると「岩手山の麓、平笠村にあり」とだけある。平笠村と」言えば岩手郡西根町平笠である。平笠で其の森を尋ねても知る人はないが「岩手森バス停留所」なら知っている と言う人がいた。そこに行って見るとそこは玉山村に属しているのである。其の近くに住む津志田氏に尋ねたところ目の前にある標高30mの小山の森をゆびさした。「えェ!この小さな森が古来有名な森なのか?!」「そこに手形のついた岩があるのよ。子供の頃はよく遊んだよ 鬼の手形があったが今は苔がはえたりしているからはっきりしないようだ」と話してくれた。やっと理解できたのです。岩手の森とは固有名詞ではなく手形のついた岩があるところの森と言う普通名詞の森なのである。つまり森ではなく手形の様な模様の岩あるところの森 それが岩手の森だったのです。岩手の語源になったと言うこの岩は岩手山の火山爆発による岩石でしょう。それにしても実方は光源氏のモデルの一人とも言われ清少納言や小大君といった才媛を恋人としたり、華やかな話題には事欠かない人がこの遥かな蝦夷の森に心を留めてくれた事は有難い事だ。清少納言に贈った

かくとだに えやはいぶきの さしも草 
        さしも知らじな 燃ゆる思ひを


は百人一首で名高い。又俊頼も宇多源氏の流れを汲み金葉和歌集・散木奇歌集等の歌集がある著名な歌人である。高貴な都人に詠まれたこの森は滝沢村で東山道で分岐して秋田の柵(城)に向かう鹿角街道の途中西根町と玉山村の境にある森なのです
(平成17年7月14日 参考 大日本地名辞書 吉田東伍 日本の地名 平凡社
             岩手の森