彼は征伐楽勝にもかかわらず大軍28万4千を厨川柵迄進め120年前頼義・義家の苦難の現場を見て一週間も滞在したのです。きっと110年の日本武尊以来凡そ1000年 中央政府念願の蝦夷の征服に成功し名実共に本当の征夷大将軍となった感慨にふけったのかもしれないのです。 ●そして4回目の大きな抵抗は1592年天正19年九戸政実の乱である。かと言って政実は蝦夷では無く南部氏の一族で、然も南部氏は甲斐巨摩郡南部郷の出身でなんと源新羅三郎義光末裔なのです。真に不思議な縁という他はありません。でも長く陸奥に住む事により政実は蝦夷的抵抗の精神の持ち主となったのかも知れない。政実5千人に対して秀吉は甥豊臣秀次・蒲生氏郷・浅野長政・石田三成・伊井直正等の錚々たる武将を含め10万の大軍を派遣したが決着つかない中、政実は婦女子郎党を助けるため命と引き換えに城を出たのである。中世最後の見事な蝦夷的抵抗だったのです。●そして最後の抵抗が戊辰戦争である。明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れたため江戸へ逃亡した慶喜(よしのぶ)は 新政府との恭順を決め、長州に敵視されていた松平容保・定敬を追放してしまった。容保は恭順の意を表し新政府に嘆願書を提出していたが聞き入れられなかった。その拒絶の張本人が長州藩奥羽総督下参謀世良修三(高杉晋作の奇兵隊出身)である。そしてその上司が公卿九条道孝で肩書きが奥羽鎮撫総督とある。なんと名称こそ違うが征夷大将軍と全く同意なのだ。奥羽鎮撫が征夷で大将軍が総督なのだ。仙台・米沢藩を中心に奥州諸般は結束して会津救済の嘆願をしたが世良修三がこれを拒否し奥州諸国に対する敵意を鮮明にした。この状況下に奥州は奥羽越列藩同盟を結成し新政府に一致して抵抗を表明したがその結果は皆さんご承知の通りです。そして奥州の敵意を買った世良修三は福島市北町の旅籠金沢屋で仙台・福島藩士12名の刺客により暗殺されたのです。蝦夷的陸奥のささやかなそして最後の抵抗だったのです。 ●そして岩手の里は飢餓と一揆の里でもあるのです。地理的状況からやませの影響をまともに受ける岩手の里は凶作・飢饉・百姓一揆の里で江戸時代の265年間に発生した凶作は92回(3年に一度) 飢饉は17回(16年に一度)である。殊に元禄・宝暦・天明・天保は4大飢饉と呼ばれる。結果として多発するのが農民一揆である。同じく江戸時代の百姓一揆は153件全国一だそうだ。司馬遼太郎の街道(陸奥のみち)をいくの中に「ある里にてはある者餓死せる家に至り屍を我に賜へ、我が母餓死の後に返へすべし、と言ひて乞ひて求めつる事有りしとぞ」と寛政の三奇人高山彦九郎の文として引用している。其の中で最大のものが12000人領民参加の三閉伊一揆は最も大規模勝つ組織的で一揆史上最大の成功とも言われている。●こういう人種差別的圧力と気象環境の厳しさをバネに多数の人材を輩出したのもまた岩手の里の特徴である。原 敬(平民宰相・盛岡) 後藤新平(東京市知事・水沢) 石川啄木(詩人・玉山村) 宮沢賢治(童話作家・花巻) 金田一京介(言語学者・二戸町) 米内光政(総理大臣・海軍大臣・盛岡) 東条英教(首相英機の父・盛岡) 大槻玄沢(蘭学医者・一関) 高野長英(蘭学医者・水沢) 新渡戸稲造(国際連盟事務次長・盛岡) 鹿島精一(鹿島建設・盛岡) 野村胡堂(銭形平次・紫波町) 斉藤 実(総理大臣・水沢) 三船久蔵(柔道家・久慈市) 田中館愛橘(近代物理学者・二戸町) 萬鉄五郎(美術・東和町) 鈴木善幸(総理大臣・久慈市)など枚挙に暇も無いのです。特に総理大臣は初代伊藤博文から小泉純一郎まで歴代で60名の方が就任してるが東条英機(本籍は岩手県)を加えると岩手県が5名も輩出してるのです。一名も出せない県が多数ある中で過去抑圧された2000年の間の蝦夷の抵抗が報われたのではないだろうか最後に笑う者が最もよく笑うのです。
(平成17年8月7日) (参考 古代東北の兵乱 吉川弘文社 新古代東北史 歴史春秋社 街道をいく陸奥のみち 朝日新聞社 岩手県の歴史 河出出版新社 岩手県不思議辞典 新人物往来社 東北のふしぎ探訪 無明出版社)  

  新渡戸稲造の像
中津川
下ノ橋のたもとにあり実はここがかれの生家でその跡に建つ 彼は札幌農学校から一時北海道開拓庁に勤めたが学問の志止み難く東京大学に入学する その面接の歳に発した言葉が『願わくば我太平洋の橋とならん』との名セリフである 日米開戦の回避に全力を尽くした事は勿論明治32年には英文の「武士道・日本の魂」を表し全世界に翻訳され日本の精神文化と伝統を紹介する名著となった 新渡戸家三代(祖父傳・父十次郎・兄七郎)は南部藩十和田三本木原の開拓でも大きな功績を上げ新渡戸記念館もある 十和田市は新渡戸家によって出来たようなものなのです 5千円の肖像画(今は樋口一葉に彼は存在する  それにしてもなぜ岩手県は斯くも偉大な人物を沢山輩出来るのでしょうか
  原 敬生家 
原敬が安政3年誕生から明治4年15歳で上京するまで過ごした生家 往時は200坪の大屋敷だったが現在は5分の1を残すのみ

平民宰相と云うが彼は立派な南部潘家老職の士族である 伊藤博文の初代首相から9代原敬の登場まで歴代の首相は長州と薩摩か西園寺公望の様な伝統的公卿貴族であり爵位もバックもない彼は衆議院議員と云うだけであった そう云う総理は初めてであったから平民宰相と呼ばれたのである
岩出の里 其の2