問へば名を いはでの関は かたけれど 恋しきことは とまらざりけり       新勅撰和歌集  源 俊頼
陸奥に ありてふ関の いはで思ふ 心の奥は 誰が知るべき           夫木和歌抄   中務卿のみこ
人しれず 袖の浦には 波かけて いはての関に 日数へにけり                夫木和歌抄 如覚
東路や いはての関の かひもなく 春をば告ぐる 鶯の声                  夫木和歌抄 藤原定家
             いはでの恋
ひとめ守る いはての関は かたけれど 恋ひしきことは とまらざりけり         散木奇歌集 源 俊頼
あづまやの かやかのきはの しのぶぐさ 岩出の関に かかるこひすや           俊忠集 藤原俊忠
おもへども いはでの関に 年へぬる 我が恋ふらくは 知る人もなし           宝自百首  細川 兼氏
陸奥の いは出の関の いはでのみ 過る月日を 知る人ぞなき                 宝自百首 公相
なにごとも いはでの関と 知りながら おもひかねてや 鹿はなくらむ                後九条内大臣

岩出の関  
ここ岩出関祉は中々特定し難いのです。大日本地名辞書(吉田東伍)の文章をそのまま引用すると「今知れず、之を渋民、寺田などに擬するも、徴証に乏し。岩手関は、観蹟聞老志に、今、寺田村在りと見え、寺田には上関てふ地字、げに残れり。されど、寺田村は、田頭大更の北なる山中にて、路頭に非ず。要衝の形勢、毫も之を見ず。然らば渋民村に岩手杜の伝説あるに合考して、其地に訪求すべきか、さもなくば厨川柵の二水の交会、三道の集衢なるに観察して、厨川柵の別号とも論断せんか。」とある。つまり北上川・雫石川・中津川の舟運、そして奥州街道・鹿角街道・秋田街道・小本街道・閉伊街道・遠野街道の集まる所にある厨川柵ではないか?と書いてあるが確証は無い。東洋書院の南部叢書には「三割村に松坂と云所あり。古へ関屋を建つ處にて則岩手関の古関なり。此の辺りを今も関口と云へり。扨松坂といへる所は古へ関屋を建つるはかりの地にて往還の大道なるを我君、三戸城を此不来方に移されし以後明暦4年に新に今の大道を通されて古き道は止められたるなり」とかなり断定的に記されている岩手県立博物館にもお尋ねしたが関口は不明とのことであった私も捜したが三ツ割の字名は見つけたが松坂は見つからない。地図を見ると三ツ割を小本街道(国道455号)が通っているが果たして此の国道上なのだろうか?ご参考に宮城県の岩手の関をご覧ください以下に盛岡市教育委員会 歴史文化課から頂いたメール全文を掲載しました。<盛岡市内の岩手の関比定地について>   現在盛岡市内で岩手の関跡と考えられる場所にはいくつかの説がございます。> まず一つめは,盛岡市愛宕町にあります盛岡市中央公民館の裏辺りであったという説です。> ここはかつて三割村関口という地名で呼ばれておりました。愛宕山という山を背負う形になりますので, 関を築く場所としては適当であったかもしれません。 二つめは,盛岡市北部の玉山区生出(おいで)または渋民(しぶたみ)というところに, 「岩手森」と呼ばれる小山があり,これを岩手の関の所在地と考える説もあるようです。 また,岩手県北部の八幡平市寺田上関(わせき)であるという説もありますが, いずれも確固たる根拠のある説ではありません。> 若槻様のおっしゃるとおり,> 現在の宮城県大崎市にあります尿前の関の前身が岩手の関であったとの説もあるようです。
岩山公園山頂から三ツ割方面を望むが関跡は現在は不明 ご存知の方のご一報をお待ちします