地名発祥の地と言われる厩跡の碑 一関市千厩町千厩 
町内から来ると高架道路と交差している左折急カーブの道の左側にあるので要注  千厩は有名な黄海の古戦場のある藤沢町の北に位置している 頼義・義家軍1800名は大敗を喫し僅か6名で命からがら多賀城に逃げ帰った➡

下 道真と息子管秀才の精霊塔
➡  その6年後西隣村の河崎柵の将金為行攻略の為再度北上した際に馬1000頭を繋いだ所からとか平泉藤原氏全盛のころ此の地から数万頭の馬を産出した事から千馬屋ともいわれた所から千厩になたもう 今道路の拡張 新道建設で岩窟は削られたためその面影はなく岩だけが露出しているだけだ 立て看板委は平泉藤原氏この地に馬千頭を飼育せりにより千厩と称す 源義経 名乗馬太夫黒は当地立てとして有名なり』 とある 
 室根本宮拝殿に掲げられている鎮護殿の文字 
まさに陸奥を鎮め護る使命をもって天平元年(729)に陸奥鎮守将軍になった大野東人が養老2年(718)に創建したものという 将軍になる以前から彼は陸奥へは従軍していたのであろう
 蝦夷征服の使命を受けた彼は蝦夷の強力な抵抗にてこずっていたのです
下 福寿山安楽寺 一関市千厩町
 西暦905~920年ごろ 菅原敦茂公(四男)管秀才が父道真の霊を祀るため開山と伝える 大宰府天満宮もその以前は安楽寺と称していた  
下左 この裏山には学問の神様菅原道真と管秀才の精霊塔が並んで立っています 福岡と岩手遠く離れて亡くなった親子が千厩の地で並んだ精霊塔です

➡ そこで彼は神の加護を願い当時霊威第一とされていた紀州牟婁(むろ)郡本宮村の熊野神社を此の地に迎える願を元正天皇に願い出た  陸奥開拓に関心の深かった天皇はこの願を聞き入れ蝦夷降伏の祈願所として陸奥に地に熊野神社の分霊を祀る事を紀伊の国造と県主に命じたという 4月19日熊野灘から南海・東海・常陸の海を越えて5ヶ月かかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)に到着した その時の仮宮が現舞根神社と云うのだ そこから鎮守将軍大野東人が出迎え先達として日本武尊縁の磐井郡鬼首山へと先導した それ以後鬼首山は牟婁峯(むろね)山と呼ばれ後世室根山となったのです(室根山神社の栞)
   金の鈴・銀の鈴
ここの鈴は縦35cm・幅31cmの本宮の金・新宮の銀の鈴が二つ揃っているの日本一だ➡ 
 撫子の山 其の2



 
 
延喜元年(901)菅原 道真は大宰府に流され敦茂(菅秀才公)は播磨に流されていた 道真の陸奥守で愛弟子藤原滋実が任地で亡くなった為追善供養の為母と姉二人と共に胆沢に来たと言う 延喜3年道真公が逝去し母も3年後になくなっと言う 父と母の供養に建立したのが安楽寺である 祠と五輪塔は官公と菅秀才公のものと言われている
  室根神社本宮 大野東人の他坂上田村麻呂・源頼義・義家親子 藤原三代・義経等数々の武将が祈願している一級社格の神社だ   室根神社新宮 新宮の勧請は正和2年(1313)葛西清信によって勧請 本宮と隣り合わせにある ➡戦勝祈願に義経・弁慶もうまを飛ばして二度も参詣に来たという由緒ある神社で伊達潘三大祈願所であったと云う 勿論其の前にお賽銭ははずんで下さい 

現桜森神社 旧興玉神社