東路の あひの中山 程せはみ 心の奥の 見えはこそあらめ     山家集 西行法師           中山峠  
あひの中山の所在ははっきりしないが東路と奥の文字から岩手県の中山にした次第で。彼は青森県外ヶ浜の歌も詠んでるのできっとここを通過した事でしょう。西行1118年〜1190年)の有名な歌に
       あずまのかたにまかりけるによみ侍ける
  年たけて 又こゆべしと 思きや 命なりけり 小夜の中山
      
あずまのかたへ修行し侍けるにふじの山をよめる
  風になびく 富士のけぶりの 空にきえて ゆくゑもしらぬ わが思哉

がある。これは1186年(文治2年)69歳の時第2回目の東の国陸奥へ向かった時に詠んだものだ。それも芭蕉のように江戸からではなく更に500km西の伊勢からである。全くその健脚振りには驚くばかりである。源平合戦のおり平重衡によって焼き討ちされた南都の焼き討ち事件で東大寺、興福寺の建物 仏像などが焼き尽くされてしまった実に悲しい事件だが、その東大寺再建のための資金集めのため平泉へ向かった時に詠んだものです。その中山峠は旧東海道の掛川市日坂宿と金谷宿の間にある峠でその昔、箱根と並ぷ難所に数えられていました。今日では景勝の地として親しまれる峠も、かつては大変険しい難所であったがゆえ、旅人たちのこの地に寄せる思いは熱く多くの歌・句(古くは古今和歌集)や伝説(夜泣石伝説など)が生まれたのだが、小箱根 山賊横行 鬱蒼とした森 大人でも心細い峠だった様だ。同じ西行でもこちらは岩手県一戸町にある「あひの中山」で、27歳で出家して4年目の若き西行の第一回目の陸奥一人旅で詠んだものだろう。難所ではこちらも「さやの中山」には勝るとも劣らない。東海道の真ん中と奥州街道の北のはずれの中山では険しさが違う。4号国道を盛岡から玉山村渋民を抜け岩手町沼宮内を通り「いわて銀河鉄道」と山間部を左右に交差しながら御堂に入る
御堂駅から少し行った所を右折するとそれが旧中山を通る旧奥州街道となる。二戸郡一戸町小繋迄のおよそ15km  途中いかにも蝦夷的地名の馬羽松(まはまつ) 摺糠(すりぬか) 火行(ひぎょう)など集落がある砂利道の細道だが今やその真下を新幹線のトンネルが通っているのは真に時代の隔世の感があるのです。そのトンネルは全長25・808kmで現在陸上世界最長であることを見ればいかに中山峠が広大な山間部である事が分かるのです。然しこのトンネルも青森・八戸間の「八甲田トンネル26・455km」が出来る迄の世界一なのです。それもそのはずここは北上山脈と奥羽山脈が合体する険しい山間地なのです。小繋駅前の店のおばさんが現4号と比較して「昔の人は何でわざわざあんな高い所高い所と歩いたのかね」と話していた。この険しさ故に明治以降の新国道4号線は全く別のルートを開削したため奥州街道は往時のままの姿を現在に留めその10kmと4つの一里塚が国指定史跡として残ったのです。西行は芭蕉の2倍以上全国を歩いたようだが特に陸奥には愛着があったようだ。彼より200年前に陸奥を歩いた尊敬する能因の陸奥歌枕追慕もあるが遥か陸奥平泉藤原氏が西行とはあの平将門を討った俵藤太(藤原)秀郷を共通の祖とするからに他ならない。秀郷の子千晴の流れが藤原経清-清衡-基衡-秀衡−泰衡 であり、もう一人の子千常の流れが佐藤公清-季清−康清-義清(のりきよ・西行)となる。秀郷は西行の8代前の祖先に当たる。西行と陸奥は実に相性がいいのです。然しそれにしても往時の人の健脚は信じがたい。(平成17年7月23日) (参考 南部叢 東洋書院 西行 岩波新書) 

俗称御堂観音堂 岩手県岩手町 
正式名称は天台宗北上山新通法寺正覚院 とやたらに長いのです 大同2年坂上田村麻呂が祈願所として創建しその一族の了慶が開基したと伝える そして天喜5年6月前9年の役で源 頼義・義家親子がうち続く炎暑に苦しみ岩手郡の平定もはかどらず本国を伏し拝み救世祈願し弓筈をもって岩を穿つと泉が湧き出てきという伝承をもつ 今猶清水が湧き出ている その時の陣中釜が今も御堂に保存されているという(説明板) 但し田村磨も頼義・義家親子も雫石川は越えなかったのであるがそんな事は野暮な屁理屈だろう ロマンは信ずる事が大事なのだ