左上 明治天皇御休息の地
左下明治天皇御休息の跡碑の正面にたっている道案内 左 中山一里塚 右摺糠とある 此の道が旧奥州街道とは想像できない
右 明治天皇碑の前の奥州街道
御堂観音を北上すると馬羽松の一里塚がある 昔 馬不喰(ムマハマズ)と呼ばれていたと言うがいかにも最果ての奥州街道の趣がある道である ここから凡そ2kmで摺糠の集落がある さらにそこから1・2kmの所に明治天皇御休息の跡の碑が建っている 今此の道は田んぼの畦道のようになっていて50000分の1の地図からは消えている 実際本当に車が通れるのか心配しながらの道であった 江戸時代から僅か14年後の明治14年8月22日当時現人神と言われた天皇が五大道の奥州街道とはいへこんな辺鄙な所迄お出でいただいたとは頭が下がる思いである
 この碑から1・4kmの所に上の画像の中山の一里塚(国指定史跡)がありここには中山の標柱があります 一里塚の高さ3.5m 直径11.4mあるが道路拡張で右側の塚は壊された 西行も此の辺りで「あひの中山」と詠んだのだろう 
この近くに奥州街道最高地点の碑(右 奥州街道最高地点の碑 標高484m)がありました 今でこそこの辺り山頂一面高原野菜の広大な畑であるが人影は全く無い 西行の歩いた頃は昼猶暗い森林の獣道程度の道ではなかったか?
大日本地名辞書には中山について『・・・山道の危険無双の悪地也』とあり更に『岩手より北は道の傍らにすら尻かくべき家もなければまして左も右もけうとき草原のみにて人のかよふ跡も見えぬばかりなり 中山峠を越え小繋に至る』とある
  中山の標柱  一戸町
 中山一里塚火行の間にある奥州街道 
右上下 火行と小繋集落を結ぶよの坂と云う名の坂がある 険しい坂で野の坂とも呼ばれていて邦内郷村志には「左右野山也 不毛之地 不生一木」あり奥州街道でもかなりの難所だったという

よの坂
中山峠 
其の3
 
 

下左中 火行伝馬所跡の案内板 
変わった名称の火行部落 戸数数軒の夏でも寒々しい集落だ 巡幸記録にも「山又山の果てしなき地」と記された所で冬は旅人も凍死したのでここに家を建て旅人の難を救った所で伝馬所がおかれたと言う
 この下を21世紀最新技術の新幹線が通ってるとは想像できないのです 期せずしてタイムスリップを体感出来る部落である 
左上下 よの坂の標柱

ご覧の様に勿論今も車では通れない笠ばかりである 1.5kmばかり下れば小繋の一里塚にでる これが往時の奥州街道だったのです
  中山の一里塚 一戸町   奥州街道最高地点碑 一戸町中山    火行伝馬所跡の案内板      よの坂