大光院新田寺吉祥門  この門は元和元年(1615)中門として建立され山門の上棟された日に大阪城が落城した  徳川方にとり極めてめでたく記念すべき建物として吉祥門と家康が名づけた  
下左 大光院新田寺本堂(新田山麓)は慶長18年(1613)徳川家康がその租とする新田義重(源義家の孫で新田氏の租)を追善供養するために創建した 寺名の義重山新田寺大光院は義重の法号大光院殿方西大禅定門による 寺領300石 幕府が定めた浄土宗の学問所関東18檀林の一寺となる 本堂須弥壇には快慶作の本尊阿弥陀仏を安置し義重公・家康公・秀忠公・家光公・歴代上人の像がある

新田山金山城石垣
大光院・金龍寺を拝観して山頂へのぼると石垣城跡に新田寺がある

左上下・下 新田義貞菩提寺義貞院金龍寺(新田山麓)左中将正一位新田義貞公菩提寺は応永24年(1417)金山城主横瀬貞氏が祖父義貞公の遺骨を越前より転送し木造を安置したのに始まる    左中将新田公忠誠碑 金龍寺入口
   新田山 Ⅱ  
➡  太平記には義貞の軽率さを批判し北畠親房神皇正統記に「義貞が上洛して北畠顕家軍と合流すべく度重なる命令に従わず空しくし戦死した事を「言うばかりなし」と嘆いている(参考 新田義貞 吉川弘文館) このあたりが戦前の英雄・勇将から戦後の凡将・愚将と一部言われる所でしょうか
左中 義重山大光院新田寺境内慈愛の鐘 昭和31年呑龍上人生誕400年を記念して越中高岡在住の人間国宝香取正彦氏の制作による 総重量850貫 口径4尺3寸

右 最上段五輪塔が義貞公供養塔
(金龍寺)

 新田義貞戦没地は福井市新田塚町にある燈明寺畷で農夫が偶然掘り当てた兜が義貞のものと判定されここに新田義貞戦死此所の碑が立ってるという 又墓は福井県坂井市丸岡町の称念寺にある  義貞は建武5年7月7日50騎をもって新田軍が包囲してる藤島城に向か途中やはり藤島城に立て籠もる自軍の救助に向かう足利側軍300騎と遭遇し深田の中に追い落とされあっという間に矢に射抜かれて倒れ自害した➡