左 総持寺山門


右中 
墓地内の国重要文化財
長楽寺宝塔


右 長楽寺本坊



新田山 W 










 総持寺境内の境内にある新田舘跡の碑
 
長楽寺山門の山額と葵の御紋
総持寺・東照宮と隣会う長楽寺
徳川家康の租となる新田義季の開基になりその隣の前方後円墳の後円墳の部分に
徳川義季公累代の墓・新田家累代の墓がある 吾妻鏡にはコ河三郎義季・尊卑文脈では得川四郎とある 彼は仁安3年(1168)父義重より新田荘内の荒廃地であったをうなつか・をしきり・せらた・かみひらつか・みつき・しもひらつかの六郷を譲渡された 義季は利根川沿いのをしきりを徳川と改称し徳川義季と称した 世良田郷を開発地頭職に補任され承久3年(1221)日本臨済宗の創始者として名高い栄西の弟子栄朝を招き長楽寺を開基した
 
 徳川家康公の祖先は義季以来7代当郷に居住したが8代目親氏は幼少にて父母を離れ正田隼人が後見人として世話してきた 親氏16歳の時足利の猛攻により同所に居住できず貞和3年(1347)11月当郷を出国。松平太郎左衛門家に代々家老として仕えてきた神谷家の祖先は新田氏庶流で上州神谷村に住し親氏と共に松平郷に来た 川手城主の山田氏は親氏に謁し以後松平氏との臣従関係が結ばれた (参考 世良田東照宮 世良田東照宮) 正田隼人は旧姓生田隼人の事で家康から「生の字は紛らわしい 今後は正田と称すべく」と正の字を頂いた 家老正田隼人は現在館林にある正田記念館の祖で正田美智子妃の遠祖でもあろうか 上州太田市が徳川発祥の地で正田家がコ川新田氏と深い関わりにも新鮮でした