泡輪神社 藤岡市
歌碑左  上つ毛野 乎度の多杼里が 川道にも 子らは逢はなも ひとりのみして    
万葉集巻14-3405
                   ある本の歌に曰く
歌碑右  上つ毛野 小野の多杼里が あはじにも 背なは逢はなも 見る人なしに

   乎度=おど  多杼里=たどり  川道=かわじ      以上万葉集全歌講義 (有)笠間書院

藤岡市中乙234に泡輪神社がある 前ページの神流川古戦場の碑や国道17号新町常夜灯と倉賀野宿の中間位で上信越自動車道藤岡インタチェンジの北部に上記神社とその境内に二つの歌碑がある  乎度の多杼里や小野の多杼里と中々呼び名とその所在地が難しかった 大日本辞書(富山房)の群馬県小野郷の項に『和名抄 緑野郡小野郷 訓乎度 今小野村を復したり 即新町駅の西南にて、立石 森 中村 栗須を籠めたり。されど古の小野郷は森 中村 栗須の辺り限り、鮎川 鏑川と烏川の交会の地なれば 水処野(みどの)とも言い郡名緑野(みどの 現緑埜みどの)も之に起る如し』とある 又乎度の多杼里小野の田野等の川の道とあり訳として
     小野の田んぼ畔を流れる川道であの子と逢いたいものだ 一人だけで 誰にも見られずに  とある
 言葉は難しいが内容は現代人と同じだ
   
高崎市指定史跡コ川忠長の墓 高崎市大信寺
慶長11年(1606)2代将軍秀忠と母お江の二男として生まれ幼名は国松と云った 3代将軍家光の弟で幼少のころから才気は兄より優れていて父母は弟国松をより可愛がったため一時3代将軍への噂もあり家光には疎まれる結果となったが春日局の工作で家光に落ち着いた 忠長は元和2年(1616)甲斐の大名となり後に信濃駿河遠江を加えられ寛永元年(1624)には55万石の禄高で駿河城に住し駿河大納言と呼ばれた 然し秀忠の死後数々の乱行によりここ高崎城に幽閉され自刃を命ぜられた(説明板) 将軍になり損ねた悲運の28歳の若さである

佐野の舟橋 W