上 能救世間苦碑 昭和14年にお寺のお坊さんが御堂の建立を記念して建したものだがその碑文の筆頭に「当丘ハ往古ノ沼垂柵跡に当ルト称セラルルふちノ権現山ノ地ニテ地方開拓ノ祖神ヲ祀り・・・・」と彫られていいる 新潟市史では沼垂柵跡は通舟河右岸の東区上王瀬町・河渡・藤身町付近が最も有力な候補地としている(市役所担当者)
上右  式内社沼垂白山神社(沼垂東一丁目)境内にある碑には「大日本史に依ると人皇12代景行天皇の御宇に「渟垂の荘ヲ置ク」「とあり本宮の創建もこの時代にあり今を遡る実に二千年有余前の事なり かくて朝威北へ伸びるにつれ人皇36代孝徳天皇大化3年には「渟垂ノ柵ヲ造ル」と記録され当時の渟垂は越後一の中心都であり・・・・・」とあった 
現在の新潟市の行政単位にも沼垂東1~6丁目と沼垂西1~3丁目とあり古代から現在まで渟足・沼垂・ぬたりぬったりの名は新潟の発祥の地の名だ
 ラルフ・ライト 伊藤文吉記念碑
弥彦山 其のⅣ   
 
登録有形文化財 北方文化博物館 越後随一の豪農の館 越後蒲原平野を横切る大河阿賀野川の西岸の小さな集落沢海(そうみ)に江戸中期に農より身をお越し代を重ねて豪農の道を歩みやがて越後一の大地主なった一族こそ伊藤家である 明治に入り次第に農地の集積を図り全盛期には1市4郡64ヶ町村に1370余町歩の田畑を所有作徳米は3万俵余であった 戦後農地解放によりこれらの土地は伊藤家から離れた 明治15年から8年かけて建てられた本邸は敷地8800坪・建坪1200坪・部屋数65を数える純日本式住居である 天井の梁と筋交の太い丸太とその数を見ればその凄さがわかる
左 農を憐れむの詩   李紳
禾を鋤いて日午に当る 
汗は滴る禾下の土 
誰か知る盤中の飧
粒粒皆辛苦なると
(早朝から)鋤をとって稲を耕しているうちに正午になった 汗が滴り落ちて稲の根元の土にしみこんで行く お椀の中のご飯の中の 一粒一粒が皆農民の汗と辛苦の結晶だということをいったい誰が知っているだろうか
楽事以不盡為有趣
楽しみは程々にしなさい その方がセンスがいいよ等のこんな古い格言のような書や古い写真・古文書が沢山建物の中には展示されてる
 
この土蔵は明治34年(1901)大地主時代飯米蔵として造られたもので建坪83坪で左右の蔵と合わせて年間2千表の米・大豆が積み込まれた 現在は伊藤家歴代の美術・骨董品のコレクションの場で集古館として現在にいたる 

然し戦後ここは進駐軍の宿舎として改築利用される所であったが進駐軍のラルフ・ライト中尉伊藤家七代目の伊藤文吉の偶然の出会がこの建物を戦後第一号の民間博物館として存続されたのです ライト氏とは文吉氏が留学していた米国ペンシルバニア大学の同窓であった 偶然が今の建物を存続有らしめたのです 「移りゆく時代の中で忘れ去られるであろう日本の伝統的な生活文化と歴史遺産を後世に残す」を理念とした 左の碑にはそのような文言が彫られている 碑には 「古い家の無い町は 想い出の無い人間と同じである」 とも彫られていた
 
東北にも豪農豪商の建物は多い 日本一の大地主と云われた山形県酒田市の本間家の邸宅も立派だがこの伊藤家の建物には遠く及ばない 写真上中の天井の縦・横・斜めに張りめぐされた梁組の直径30cmもの材木を見ればその財力に驚く 特に斜めに渡された筋交は個人の住宅ではめったに見られぬ贅沢この上ないものである(説明板) この梁と筋交だけで推して知るべしだ 画像下の庭園が見える大広間座敷は年に数回しか使われないが総てが檜造りで式台と戸は一枚板を使用雨戸26枚が納まる戸袋や座敷を囲む廊下には柱が一本も無い釣欄間工法等全てが贅を尽くしている(パンフレットより)