つらくとも 忘れず恋ひむ 鹿島なる 阿武隈川の 逢瀬ありやと     玉葉和歌集 源 順

ここ宮城県の最南端 阿武隈川が太平洋に注ぐ南側一帯の亘理逢隈の狭い地域には延喜式内社が4っつもあるのだ 鹿島三社と阿福麻河伯神社である。この地区は東は太平洋 北と西は大河阿武隈川で行き止まりの地である。南からやって来た蝦夷征伐の人々はこの逢隈の地で渡河の為の長逗留を余儀なくされた事だろう。その為ここには亘理郡衙が置かれ(三十三間堂跡) 四つの式内社が置かれたのだ。阿武隈川の水の守り神阿福麻河伯神社と武神を祀る伊豆乃比気神社、緒名太神社、天足和気神社の鹿島三神社である。残念ながら伊豆乃比気神社の所在が不明だがこの四社の宮司は代々三品氏累代が継承していると言う。天足和気神社の宮司三品氏の話では『大和朝廷の蝦夷征伐軍が南の常陸の国から武神鹿島神社を背負って来たんだろうな』と話していたのは印象的である。又三十三間堂は上郡 下郡の地名がある様にここは郡衙跡と言われている。あの平泉4代の土台を築いた初代清衡の父親亘理権太夫 藤原経清(彼は俘囚の長安倍頼時の娘 結と結婚)が築いたと言われ まことに古代の夢はせる所である。残念ながら前九年の役に敗れた彼は 源 頼義によって鈍刀によって斬首された悲劇の人でもある。このようにここ亘理の地は陸奥の歴史の転換の地でもあるのだ。(平成14年8月28日)(参考 宮城県の地名 平凡社)

下左右 式内社鹿島天足和気神社    亘理郡逢隈鹿島    祭神は武甕槌神・稜威雄走神・猿田彦命とある
  鹿島神社

 


   
 景行天皇41年(111)日本武尊の勧請 延暦3年(782)征夷に神験があったので勲5等二戸加封・貞観4年(862)官社鹿島宮に従4位上賜る 天慶4年(941)北鹿島樫木山頂に再興等の由来が説明板にあった 
右 画像3つは式内社鹿島緒名太神社 亘理郡亘理町逢隈小山  天足和気神社に比べ落ち葉 雑草に覆われ手入れ不足が目につく 残念ながら伊豆乃比気神社は所在不明である