千歳をば 雛にてのみや すごしけん 小鶴の池と いひてひさしき
                               源重之集 源 重之(父)
千代をすむ 小鶴の池も かわらねば おやの齡を 思いひこそやれ
                                 同 源 宗親(息子) 


この歌の詞書に 『3月ばかりに、陸奥にて祭りに行く程に、雪に困じたるが、こなたを過ぐるに、ここはいづくぞといへば、小鶴の池といへば、心やりによめる』とある。宮城野区新田3丁目辺りに大きな池があったというのだが今は全くない。大都市郊外特有の新田東区画整理事業の真っ最中の所である。『宮城野の北三里余にあり。小霍池(小鶴池)往昔は太湖なりし。荒廃して水田となりただその池の形のみ存す。』ともある。 大小多数の湖沼があった湿地帯田子の浦の西端にあり恐らくその内の一つだったのではないだろうか。宮城野原と岩切のほぼ中間にあり東山道で国府多賀城へ行くのに右手に池が見えたはずである。陸奥守でもあった重之が亡くなったのは西暦1000年前後であり又国府多賀城が10世紀にはその古代のロマン溢れる使命が終える時期でもあったが 岩切・多賀城は14世紀の南北朝の動乱期まで陸奥国府として依然として政治・行政の中心地であた所なのだ所がこの池と同名の池が福島県原町市にあり 然も地名が鶴ケ谷と言う所に小鶴明神と 上の重之の歌碑とともにあるのです(福島編参照)。宮城野区内には勿論原町・鶴ケ谷という地名が小鶴の池の南西部と北西部にあるのです。偶然と言うには出来すぎているが知る由もありません。然し由来となる昔話はその内容が全く別々なのが面白い。福島の話は小鶴の池の鶴の卵を助けた行徳老人への鶴の恩返しであり 宮城の話は地主による過酷な労働のため乳飲子を亡くした美人の小鶴子が子供とともに入水したのが池の名の由来なのだ。共に他愛のない話である。東奥紀行なる本には「歴渉 小鶴池 野田玉川 途絶橋 末松山 千引石之諸勝・・・」などとあり歌そのものは宮城に分がありそうだ。
(平成15年1月6日)(参考 よみがえる中世 平凡社・奥州相馬 著者森 鎮雄・日本名所風俗図会 角川書店

新田の名も名ばかりとなってしまったが 小鶴の池が有ったとされる付近は新興住宅地です 区画整備事業特有の殺伐とした住宅地造成の風景しか見られなくなってしまった ずっと先方には多湖(田子)の浦といはれた名勝があり小鶴の池は多胡の一角を占めていたのではなかろうか
 
湿地帯が次第に田に変化したのだろう 新しい田んぼの地だから新田なのです

小鶴城跡ちは今が公園になっている

 
 小鶴の池