左上下 春日神社 利府町 
 名古曽の関から県道8号を1km程北上し宮前で県道40号線と分岐する所に春日神社がある この神社大層古く847年(承和10年)陸奥按察使として赴任した藤原藤麻呂がその氏神である奈良春日大社の分霊を塩釜上の原に遷霊した その後ここ利府の小野田の地に移したものでこの地を春日となった 多賀城の北の守りであり北宮とした(東宮は七ヶ浜町 西宮は不明 南宮は多賀城市 ) このような由緒ある由来から奥州平泉藤原氏秀衡や藤原の流れをくむ留守職の伊沢将監家影やそして利府城主18代留守正景からも厚く崇拝されたと言う
 
当初留守一族の村岡氏が館を築き村岡城としたが永禄12年(1569)留守氏の家督相続問題の内紛から留守氏の血筋を守る村岡氏と伊達ま政景(晴宗の三男・後の留守政景)を養子に迎え伊達氏の勢力下で留守氏の安泰を図る伊達派の対立の後村岡氏が敗れ永禄入13年(1570)留守氏の養子に入った伊達政景はここに移り利府城とし留守政景となった 下 利府城址の碑 利府市
上左 郷民伝えて勿来の関
と呼ぶ 山上に勿来曽明神あり この地奥州三関の一にて胆沢鎮守府より多賀国府に通う要路なり  この地は大野東人の進言により出羽柵へと通じた道の関門となり更に奥六郡へと通じ前九年・後三年の役や戦国時代へと多くの武将・兵士が通過したのだ
 のでしょうか
吹く風を なこその関と 思へども 
       道も狭に散る 山桜かな

左 勿来神社の石碑だが碑には勿来曽神社と彫られてある  この杉の落葉に埋まった碑の後ろ側の暗い道が古代東山道ではないかと町の歴史資料館の方が言っていた 命をかけた古代の英雄たちや平泉を攻め古代に終止符を打った頼朝もきっとこの道を北上したに違いない
     名古曽の関 其の2