同じくは 妹がりゆかば 恋すてふ 名取の橋を 踏まずもあらなん
多田民治集
東北自動車道仙台南ICから閖上港までの間に橋が7つある。上から名取2号橋(国道286号) 栗木の橋(東街道) 名取1号橋(国道286号) 名取橋(旧国道4号) 名取大橋(国道4号バイパス) 仙台東部自動車道名取川橋 閖上大橋(県道10号)である。この歌枕の名取の橋とは現在の栗木の橋だろうという。(名取市役所談) ここは高舘山の北の端高舘熊野堂にあり名取川と高舘山が一番接近してる所に架っているが、古道東街道の仙台との連絡ルートについては簡単には描ききれないようである。然しこの名取川を渡らねば多賀城には行けないのだ。確かに栗木の橋は郡山郡衙や多賀城に向うには少し西よりに迂回しすぎるきらいはあるが この橋の数百m手前にある熊野本宮社の奥さんは指差して鳥居の前の細い砂利道が本物の東街道ですよ と云ったり、又その南にある熊野新宮社内には奥州征伐の源 頼朝の腰掛石があったりと栗木の橋に近いところにはある。さらにここが川幅が一番狭いように見受けられるのです。さらに写真の様に車一台しか通れない貧弱な橋なのも判官びいきで名取の橋としたいところだ。頼朝と云えばこの川を渡るとき
『我一人 今日の戦に 名取川』と口吟すると梶原景時がとりあえず 『君もろともに かち渡りせん』と付け足して将士を鼓舞してみせたり 又白河の関を越える時には有名な
秋風に 草木の露を 払わせて 君が越ゆれば 関守も無し
などと上司にゴマを摺る様に詠んでいる。又弟の景高までが宮城北部の栗原郡のつくも橋では
陸奥の 勢は御方に つくも橋 渡して懸けん 泰衡が首
などと 頼朝におもねるような歌を詠んでいて 何となくこの二人を好きになれないのである。確か頼朝の義経に対する誤解と偏見も梶原兄弟の讒言によるものである とどこかで読んだ気がする。名取の橋とは直接関係はないが・・・・
(平成14年9月26日)(参考 日本地名大辞典 角川書店 名取郡史) |
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延喜式内社 多賀神社(仙台市太白区) |
左 多賀神社の由来書によると『景行天皇40年 皇紀771年 西暦111年に日本武尊東夷追悼の折に勧請され第21代雄略天皇(西暦457年)に圭田58束を賜って御祭式を取り行った そして第70代後冷泉天皇の御世に鎮守将軍源 義家は東征の際に名取川を渡って本宮に参拝して武運長久を祈願した』とあった 名取川を渡ったと書いてあることはやはりこの栗木橋こそ東山道の路で歌に詠まれた名取の橋である事は間違いない
名取の橋
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