野田の玉川

陸奥に ありといふなる 玉川の たまさかにても あひみてしがな
      古今六帖 読み人知らず
     陸奥に罷りける時、よみ侍りけり
ゆふされば 汐風こして 陸奥の 野田の玉川 千鳥なくなり            新古今和歌集 能因
陸奥の 野田の玉川 みわたせば 潮風こして こほる月影         続新古今和歌集 順徳天皇
光りそふ 野田の玉川 月きよみ 夕汐千鳥 夜半に鳴くなり                後鳥羽院
風をいたみ 舟出し野田の 海人よりも 静心なき 目をもみるかな           藤中将実方
  能因歌碑 塩釜市玉川
上左 6年前に訪ねた時にはあった奥の細道の標柱 25年11月にはなくなっていた 
 県道13号沿いが東北本線と交わるあたりの玉川近くにある歌碑と御堂 ここから上流は市街化の為地下を流れてくる そして手前の東北本線の手前から土手をくぐる

  


 単なる小川にもかかわらずなんと言っても千賀の浦(塩釜)・松島と多賀城の間を流れていた事と 古曾部入道 能因の一句によりこの玉川は一級の歌枕に仲間入りし かつ日本六玉川(井手の玉川 山城・ 野路の玉川 近江・調布の玉川 武蔵・高野の玉川  紀伊・玉川の里 摂津)の一つに数えられれているのですでも此処ほど聞くと見るでは大違いな所も無いかも知れない。申し訳ない事にそれは決して野田の玉川の責任ではなく我々に問題があったわけだが。それだけこの歌枕と能因への期待が大きかったわけですが、現代にそんな贅沢な風景を想像してくる私がお人よし過ぎたのだろう。先ず殆どが市街化の中にあり下水道化している。だから玉川は道路の下にあり溝渠化され見えない。更に観光個所として見せる所は側面も底面も総て石とコンクリートで その上に水は底を更に細くした40〜50cm位の幅の緩やかなカーブをつけた溝を人工的流れているのである。周りが総て住宅地なので仕方が無いのだろうがそれでも余りにも人工的で違和感が残る歌枕である。もう来る前の印象とこれほど違ったのも珍しいらい。ごみだらけの富士山の山頂より遠くで見る富士山の方がずっと美しいのと同じ現象かも知れない。もはや歌の風情とイメージは個人々の想像の世界の中にしかなくなってしまったのは淋しい。でも21世紀の野田の玉川をアレンジすればあんな形が妥当なのかも知れない。この現象は実は江戸初期には始まっていたらしい。奥羽観蹟聞老志に「往昔河流アリ。潮汐マタ来往シ、石瀬ノ所ハ浮光金ヲ躍ラセ、深潭の地ハ清影壁ヲ沈ム。皆月ノタメニ嘉名ヲ得。如今廃地トナル。唯野田の溝渠ヲ残スノミ」とあり享保4年(1716年)頃にはすでに 廃地 虚構を残すのみ と書いてある(奥の細道とみちのく文学の旅 東北地方推進協議会そういう意味で是非一見して欲しい歌枕である。(平成15年5月5日)