陸奥の 尾駮の駒も 野飼ふには 荒れこそまされ なつくものかは
                                 後撰和歌集 読み人知らず
つなたへて 離れはてにし 陸奥の 尾駮の駒を 昨日見しかな
                                    後拾遺和歌集 相模
あふさかの 杉の群立ち 引くほどは 尾駮に見ゆる 望月の駒
                                  後拾遺和歌集 良暹法師
我れが名を 尾駮の駒の あればこそ なつくにつかぬ 身ともしられめ
                                    蜻蛉日記 道綱の母
きれひつる 尾駮の駒に 先立ちて かつ見る人も 恋しかりけり
                                        後白河院
冬枯れの 真野の萱原 ほに出でし 面影みせて おける霜かな
                                   新拾遺和歌集 大江忠広
故郷の 人の面かげ 月にみて 露わけあかす 真野の萱原
                             新続古今和歌集  中務卿宗尊親王
 分からないのがこの尾駮と言う単語です。国語大辞典(角川書店)では駮とは斑(まだら)・駁(ぶち)とあり『いろいろな色が混じりあいまだらに成ってる事。主として獣の毛色について云う。ぶち猫・ブチハイエナ』とあり、又尾は『しり・うしろ・おわり』で中々真意が掴めないのです。 大漢語林(大修館書店)でも『@猛獣の名 形は馬に似て虎や豹を食う。Aまじる・まだら・ぶち・まだら馬B責める・なじる・ただす・他人の設を非難攻撃する』とあるです。どうも地名の由来にはつながらないのです。石巻の他に青森県上北郡六ヶ所村にもあるのですが、こちらの尾駮はちゃんとした固有名詞があるがその由来は不明でしょう。尾駮 尾駮沼 尾駮浜 尾駮小学校 尾駮診療所ナドナド・・・。所が石巻にはどうもそれらしき所がないのです。一体尾駮というのは何ていう意味なのでしょうか?若しご存知の方は是非ご一報をお待ちしています。青森県の「牧」と言えば「牧場」の事でしょう。尾駮の牧 荒野の牧 奥の牧 館野の牧などがある。一方石巻では芭蕉は奥の細道で『・・・明くれば又しらぬ道まよひ行。袖の渡り・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて・・・』とあり、曾良旅日記では『尾駮御牧 石ノ巻ノ向、牧山ト云山有。ソノ下也』 名勝備忘録では『日和山トへ上ル。石ノ巻中不残見ゆル・・・尾駮ノ牧山眼前也』とある。御牧(みまき)と言えば官営の牧場でしょう。牧山を昔から おまぎやま と呼び習わされている。然しどう見てもここ北上川と牧山の間の狭い所が牧場があったとは思えないのだ。昔は川幅も広く且つ海岸の埋め立てなど無かったから湿地はあっても平地は無かったと思われる。又牧山(218m)も山頂には神功皇后御勅願により応神天皇2年に創建された御鎮座1800年の延喜式内社零羊崎神社の由緒ある恐れ多い霊地なのだ。その足元の勾配のある所が馬場になるとは信じ難いのである。奥の細道でも『・・・石の巻といふ湊に出。・・・金花山海上に見わたし、数百の廻船入り江につどひ、人家地にあらそひて、竈の煙立ちつづけたり。』とありとても馬などの出る幕では無い状況である。それは近世も古代でも余り変わっていないと思うのです。昔から石巻は魚の町であり馬の町ではないでしょう。(平成15年10月25日)  蛇田道公古墳 
日本書紀崇神天皇紀48年条に豊城入彦命を「東国に遣わしむ 是れ上毛野君・下毛野君の始祖なり」とある
 天平以前の陸奥は殆どが上毛野氏で 田道を始 形名・小足 安麻呂・広人等陸奥守 按擦使である 田道町があり 蛇田も市の北西部の大きな地区を占めている 
          尾駮の牧