一皇子神社由来碑 |
一皇子神社
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護良(もりなが)親王は別名大塔の宮とも呼ばれている 後醍醐天皇第3皇子である 叡山を味方にするため天台座主となったがお経はそっちのけで武芸の修練ばかりでこんな門主は聞いた事がないと噂された 史実では鎌倉で幽閉され足利直義の家臣淵辺義博によって殺されたことになっているが 実は渕辺以下七名の忠臣に手引きされ海路逃れて牡鹿湊に上陸し当時南朝方の石巻城主葛西氏に保護され再起を期したが病で1346年亡くなった と言うのも又ご愛嬌であろう 一皇子神社は護良親王埋葬の地の伝説が有る ここは吉野町と呼ばれ其の東には御所入と呼ばれる住居地があった所される字名があり後醍醐天皇の第二皇子義良(のりなが/のりよし)親王(後の後村上天皇)がこの地に下向された所という 北畠親房・顕家に奉じられ多賀城までは来てはいるが果してここまで来たか否かは定かでない 然し歴史ロマンいっぱいの地である |