踏まま憂き 紅葉の錦 散り敷きて 人も通はぬ おもわくの橋           山家集 西行   おもわくの橋


   おもわくの橋からみた野田の玉川 能因・西行時代の風情は既に失われて久しい

 世のなかには中々魅力的な名前の橋が在るようです。陸奥にも福島県郡山市のささやき橋(心ならずも天皇の側女として都へ行く安積采女と許婚の別の言葉を囁いたところ)」、 秋田県雄勝町の御返事橋(深草の少将が小野小町から結婚の返事を貰うため小町の100日通ったらとの無理難題に99日通い続けてところで死んだ)、そしてこのおもわくの橋である。別名を紅葉橋 安倍待橋ともいうのだそうだ。『おもわく』と言う娘に恋をした安倍の貞任野田の玉川のたもとにあった彼女の家に通うため橋を架けさせた と言う伝説があるが勿論事実ではないだろう。ここは蝦夷支配のお膝元の多賀城のすぐそばである。いくら微妙なバランスのもと平穏な日々であったとしても蝦夷俘囚の長頼時の総領である。然もおもわくは土着の蝦夷の女性ではなかったかも知れないから叶わぬ恋だったろう。貞任はどうも蝦夷の女性より赴任してきた都人の女性に興味があったのではないだろうか。あの前九年の役の発端も源 頼義の部下の藤原説貞の娘を嫁に欲しいと申し出たが『蝦夷の家柄のくせに』 と馬鹿されたため短気な貞任が説貞の息子の光貞 元貞兄弟に阿久利川で夜襲をかけた事が始まりという事になっている(新古代東北史 歴史春秋社)。あと一晩我慢すれば頼義は陸奥守の任期満了で帰路についたものを である。勿論これは罠で頼義に仕掛けられたものであるが 頼義側は長年の駐屯で彼の女性観を知っていたのではないだろうか。大きな戦のきっかけなどは意外と抑えがたい ささいな個人的感情からの場合いが多いものである。そんな事を想像しながら壷の碑 浮島 多賀城廃寺跡を見て東北学院大学の裏を通り左に折れると急勾配の坂で下り切るとすぐ正面ににおもわくの橋がる。あまり急に目の前に橋が出たので驚いた。紅葉山とはこの坂のことかも知れない。4代伊達藩主綱村が橋の東の小山に多くの紅葉を植えたので紅葉山 紅葉橋と呼ばれている。しかし今ここに紅葉の面影はなく道も 川も 橋も総てコンクリートに固められていて西行の歌の面影は微塵も無いのが淋しい限りだ。春4月ではなく晩秋にでも行けば落ち葉で風情があるのかも知れない。西行の山家集に『ふりたるたなはしを もみじのうずみたりける、わたりにくくやすらはれて、人にたずねければ、おもわくのはしはこれなりと申しけるをききて
    ふまま憂き もみじのにしき ちりしきて 人もかよはぬ おもわくのはし 
信夫の里よりおくへ二日ばかりいりてある橋なりと、この一首により見事陸奥歌枕の仲間に入れた事は幸運だった。思惑という何とも日本的響きからくるえもいわれぬ語感と情感は 一級の歌枕に耐え得る実に素晴らしい何か気になる単語であると思ふ(平成15年5月4日)