あかずして 別れし人の すむ里は 沢子の見ゆる 山のあなたか         拾遺和歌集 詠み人知れず
音にのみ きき渡りつる 河州が城 騫とも知らで 過ぎにけるかな         源 兼澄集 源  兼澄
 
曾良旅日記に『・・・シトマヘゝ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有。・・・』とある。又同じ曾良の奥の細道・名勝備忘録では『佐波古御湯 岩城。又仙台ヨリ新庄へ越ル道、尿前ト云宿ノ近所、鳴子ノ湯ト云有、古ノ沢子ノ御湯也。所ノ者ハ判官殿ノ故事ヲ云。』と記している。佐波古はいわき市湯本温泉 鯖湖は福島市飯坂温泉 沢子は鳴子温泉である。判官殿は勿論義経伝説で彼が頼朝の追手を逃れ平泉へ最上から鳴子へ出た1186年(文治2年)、義経の妾北の前が亀若丸を出産 し河原の湯で産湯を遣ったところ泣き声を上げた「啼子」から鳴子になったと言う。だが芭蕉等は温泉の川の反対側を通り1200年以上の歴史有る温泉に入ろうともせず先を急いでいる。[『・・・小黒崎・みづの小嶋を過ぎて、なるごの湯より尿前の関にかゝりて・・・』と芭蕉も鳴子についてはそっけないのです。鳴子温泉郷は川渡 東鳴子 鳴子 中山平 鬼首の5つの温泉地からなり源泉数399 利用源泉299泉質は多種多様で放射能泉・単純炭酸泉以外は日本に有る泉質の総てがここにある温泉のデパートなのだ。『脚気川渡 瘡鳴子』とは昔からの効能を言い伝えている。陸奥の三名湯と云えば名取の御湯 飯坂の御湯 そしてこの玉造の御湯である。共に由緒あるが古代の歴史書続日本後紀に貴重な大事件が記録されたのは玉造御湯だけである。『仁明天皇承知四年癸巳朔戊申。陸奥玉造騫温泉石神。雷響震動昼夜不止。温泉流河具色如漿。可以山焼谷騫石崩。更作新沼。沸声如雷。如此奇怪不可勝計・・・』とある。うまく読めないが何となく理解出来る。つまり837年(承和4年)4月仁明天皇の御代玉造の鳥谷森の大爆発の惨状である。この怒涛のような唸り声が鳴る事から「鳴る声」「鳴子」になったとも云うのである。 『落雷の様な震動がして昼夜止まらない。乳白色のどろどろした温泉が河に流れ出した。山が盛り上がり谷は燃え石は崩れた。更に新しく沼が出来て雷のような音をたて沸騰してる。この怪奇な様は想像を絶する・・・』とあり、その生々しいリアルな描写は現気象庁の地震・火山速報にも引けを取らぬ迫力で当時の惨状を活々と記している。その怒りを鎮める為に川渡に温泉石神社 鳴子湯元に温泉神社を祀ったと云われ共に延喜式の由緒ある神社だが、既に記述に「陸奥玉造温泉石神」とあり大爆発以前のずっと昔から温泉があった事がわかり其の古さは半端ではないのだ。名湯の由縁であろう。尚騫とは砦のことで所在は不明だが古川市史によると玉造騫温泉石神社とあるから鳴子川渡辺りでなければならない と記している。玉造騫(柵)は789年(延暦8年)征夷大将軍紀古佐美がアテルイ蝦夷征討で衣川遠征したときの兵站基地の役割を(続日本紀)果たしたのだと言う。あの清少納言も枕草子の「渡り」の項で「渡りは、しかすがの渡り(三河) こりずまの渡り(摂津) 水はしの渡り(越中) たまつくりの渡り」を「おかしきもの」として述べているが、その鳴子の川渡(かわたび)の語源も「玉造川の渡り」からだろうというのです。鳴子の歴史は実に古く奥が深いのです。奥深いと言えば鳴子の奥にあるのが鬼首温泉です。日本一の間欠泉が吹き出るので有名だ。ここは俘囚安倍頼時と陸奥守藤原任登・秋田城の介平重成連合軍が戦い連合軍が大敗北を喫し、その後頼義・義家親子の出番となる所謂前九年の役の前哨戦とも云うべき戦場だった所でもある。興味深い所である。
(参考 古川市史 古河市 鳴子町史 鳴子町  宮城県の地名 平凡社)
(平成16年4月4日)
   啼子之碑 鳴子町元湯温泉神社境内一の鳥居の側にある 寛政11年(1799)湯守遊佐勘左衛門は鳴子温泉由来書を仙台藩の右筆今田定恒に依頼して啼子碑を建立した
沢子の御湯(玉造の御湯 鳴子温泉)