にはなかの 阿須波の神に 小柴さし 吾は祝はむ かへりくまでに       万葉集      わかるれど あすわの神は かへらなん 手向けをつとに 小柴さしつつ      名寄 
                                                   
 

志は彦神社
(冠川神社)

 
 宮城郡の由緒ある延喜式内社は4っつある。利府にある伊豆佐比売神社 七が浜の鼻節神社 多賀城にある多賀神社 そしてここ岩切の志波彦神社である。859年(貞観元年)の三大実録によると「陸奥国正5位上勲4等計仙麻神社 正5位下勲4等志波彦神社 勲5等拝幣志神社 勲6等零羊崎神社 従5位上勲4等志波姫神社(栗原)並びに従従4位下」とあり 実に格式が高いのである。志波とはこの神を祭るのに小柴をさして道の往来を祝った事に因るらしい。謂う所の道の辺の岐(ふなど)神という。つまり志波彦神とは交通安全の柴神 道祖神で路上に祭られた神であり 古来交通の重要な分岐点や渡河点に位置する神であったのだと言う。ことにここ岩切の志波彦神社の位置の重要性は特にはっきりしているのだ。この位置は志波柵 胆沢柵への東山道の基幹ルートと終着多賀国府への奥の細道の分岐点であるとともに府中を守るの西の要害であったろういう(西宮)。西の守りは北宮(惣の関春日神社) 東の守りは東宮塩釜湾東宮神社) 南の守りは南宮(神社ははっきりしないが多賀城南にその地名がるので神社もあったろうは蝦夷に対する国府防衛の名残であろうとも云う。然し古代末期には其の重要性は薄れ塩釜神社の末社となるのである。明治7年には塩釜神社に合祀されたが明治10年には志波彦神社を分霊して旧社を奉還して冠川神社と称し塩釜志波彦神社の摂社に指定された。現在八坂神社境内の傍らにその祠がある。この八坂神社はその栞には明治になって17社をも合祀したとその神社名が記されていたり そのとなりの滋覚大師開基とされる東光寺には宵の薬師をはじめ100以上の板碑群を擁したりと 狭い地域に驚くほどの神社仏閣 板碑群が存在するのだ。志波彦神社をメインに岩切一帯は古代から中世に於ける国府の極楽浄土を願う死者の一大霊場だったに違いない。(平成14年12月26日)(参考 よみがえる中世 平凡社 利府町史 利府町))

下左 現志波彦神社は塩釜神社内にある これはそのレプリカとも云うべき分霊社 冠川神社である 八坂神社の隣にたつ ここから見渡せば真下を奥の細道 冠川が見え 左前方には東山道が北を指し延びる正に道の安全を祝う古代道祖神が鎮座するに相応しい所だ
下右 八坂神社は1189年藤原の流れをくむ留守職伊澤家景が京都祇園から衰微著しい旧志波彦神社の跡地に勧請した 岩切地区内の鎮守17社を合祀した その中には田村麻呂建立と伝える若宮八幡 正観音堂等も含まれる由緒深い神社だ
      上右  奥の細道・岩切を中心にした主な各史跡・遺跡の位置関係



左が冠川神社 
右が八坂神社