陸奥の 袖の渡りの 涙川 心のうちに 流れてぞすむ          新後撰和歌集 相模
 
川 浅き瀬ぞなき 陸奥の 袖の渡りに 淵はあれども       夫木和歌集 藤原行家
阿武隈に 霧たてといひし 唐衣 袖の渡りに 夜も明けにけり    重之集  源 重之


温暖で平坦かつ山道(奥州街道)と海道(浜海道)が合流する地点である岩沼近辺は,古代には玉前(たまさき)の柵とも呼ばれ重要な拠点だったと思はれる。白河の関に対する下紐の関と同じように,勿来の関に対する玉前の柵であったようだ。この名取と亘理を分けるのが大河阿武隈川である。白河の関から石背の国を通りここ伊具・亘理郡の国に来ると,さすがの大河もおとなしくゆったりとし川幅も1キロ近くになっている。文治5年の浜海道を来た奥州征伐軍が吾妻鏡に『逢隈の湊を渡る』と記した水量の多い当時を考えれば決して大げさとは言えない湊程であったろう。この渡りが何故『袖』なのか?袖と涙は古来離れられない関係だがやはり虐げられた蝦夷、陸奥とも無関係でもあるまい。近くの柴田郡槻木町には衣の関もあり『,袖と衣』という中々心地良い響きのする歌枕同士も関連がありそうだ。又この河口には逢隈湊の他綾の瀬、稲葉の渡し、安福麻河伯神社さらに鹿島神社等の歌に詠まれた地区があり、狭い所に数箇所の歌枕があるのはやはりこの大河の影響であろう。静かな田園の町は由来を知る好奇心にそそられる所でもあります。所がこの袖の渡り 実は石巻市内を流れる旧北上川にもあるのです。頼朝に追われ逃亡していた義経がこの川を渡る時に無一文なので袖の一部をきりとって船賃代わりに渡したので 『袖の渡し』 というのだそうだ。興味そそられる歌枕です。確かに義経主従は日本海側を落延びたのであり太平洋側でないことは確かなのです。

(平成14年8月29日)(参考 大日本地名辞書 吉田東伍)


             袖の渡り                                              

上 袖の渡り 近世は藤波の渡し 阿武隈川 
浜海道は今国道6号線となり4車線の立派な橋となっている 右神社はこの渡りの近くにある由緒ある式内社 ともに歌によまれている 阿武隈川を挟み手前岩沼市 向こうが亘理町


 亘理町式内社武神鹿島天足和気神社       亘理郡亘理町