あまたたび 君が心を 陸奥の
多湖の浦島 恨みてそふる
夫木和歌集 読み人知れず
はるばると 田子の二本木 来てみれば
四野が原に 枝ぞさかえる 二木神社ご詠歌 何処かで聞いた事がある地名である。そうなんです。有名な『田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪はふりける』と云う万葉集巻3-318番の聖武天皇期の歌人山部赤人の歌である。彼の歌は40首ほどあるが思想 生活の歌は勿論 相問歌など一つも無く、あるのは自然対象の叙景歌ばかりだそうだ(万葉集 NHKブックス)。うだつの上がらない堅物の歌人だったのかも知れない。でもこちらの田子の浦は静岡県であり往時は富士川西岸興津川から東の蒲原・由比町あたりの富士の見える景色抜群だった所である。勿論それには及ぶべくも無いが宮城県の田子は古くは海辺だった多湖の浦に由来するという。宮城野区役所の出版物には坂上田村麻呂(792年)の延暦の東征時に余りに多数の湖沼があったのを見て多湖と云ったというのが始まりとも書いてある。田子コミュニティーセンターの職員さんは『頼朝が奥州征伐(1189年)でこの地に来てその景色が静岡の田子の浦に似ていたので名付けた』と云っていたが 伊豆の蛭が小島に流されていた彼なので さも有りなん である。彼が田村麻呂創建の二木神社に詣で西の方を望むと、満々と水を湛えた水面に映る泉が岳の風景が駿河の田子の浦に映える富士の姿によく似ていたので多胡を田子と改めたと言う。そしてこの七北田川を遡り岩切の今市橋を渡る時その冠を風で飛ばされたのでこの川を冠川(かむりかわ)と言うようになったのです。公民館の職員さんは『田植えの頃が多湖らしい風景が見れますよ』 と話していた。いずれにしろ古代には入江は今よりずっと内陸まであり 大小多数の湖沼がある湿地帯であったようである。隣村にあった歌枕小鶴の池もその一つだったのだろう。近くにあるリアス海岸の塩釜 松嶋とは対照的に平坦な海岸線の長い湖沼 海原 松原のある風光明媚な風景ではなかったかと思われる。今写真の様に全くその面影はない。(平成15年1月5日)(参考二木神社栞区役所のコピー)
右 古代七北田川はここではなく関合辺りから真東に流れ七ガ浜の湊浜に注いでいた 伊達政宗により蒲生に改修され それにより湿地が失われたのかも知れない 今田子の地名が宮城野区東部にあり七北田川の西側であるが海岸からは大分奥地にあり仙台湾の埋め立てや護岸工事・河川改修などで浦とは縁遠いものとなったのでしょう |
田村麻呂創建を伝える二木神社 宮司さんも田村と言う方でしたが此れは偶然でしょう 源氏の棟梁頼朝が奥州征伐の折り田村麻呂にちなんでここに詣でた時二本の大きな杉の木がありこの巨木に馬をつなぎ休息たので二木神社と名づけたと言う |
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右 七北田川(冠川)に架かる田子大橋 昔はこのはしをうま橋と云ったという 大橋とはいえ車一台がやっと通れるほどの狭い橋である |