みちのくの 十符の菅薦 七編には 君を寝させて 三編に我が寝む           綺語集 藤原仲実 
あやむしろ 緒になすまでに 恋わびぬ 下朽ちぬあらし 十符の菅薦      夫木和歌集 鎌倉右大臣
寝覚めする 十符の菅薦 冴えわびて 暁ふかく 千鳥鳴くなり         後鳥羽院御集 後鳥羽院上皇
たまさかに 十符の菅薦 かりにのみ くれはよとのに しく物はなし         和泉式部続集  和泉式部
水鳥の つららの枕 ひまもなし むべさへけらし 十符の菅薦            金葉和歌集 藤原経信
西暦1200年前後の後鳥羽院や1000年前後の和泉式部等にすでに詠まれているように陸奥宮城県岩切の菅の薦はローカル色が強い古代版一村一品として さらに異境のエキゾチックな産物として都では人気商品だったのだろうか? 岩切という小冊子に因ると敷物や菅笠の材料とされた陸奥の良質な菅の中でも特にここのは長く質がよいので京の都で評判が高かったと記している。顕昭の袖中抄にも『すがこもとは菅にて編みたる薦なり 菅笠 菅蓑 菅枕 菅藁などと言うが如し薦とは本の名に随いて 藁にて編みたるを藁こも 菅にて編みたるを菅こもと云也』
(大日本地名辞書 吉田東伍)とあるのでどうにか十符の菅薦をご理解頂けるでしょうか。所謂蓙(ござ)の事でしょう。十符とは敷物を編むのに十ヶ所も編めると言う意味で その様に長い菅が生えている池が十符の池 そこの菅を十符の菅 そしてそれがある高森山の谷合を十符の谷といったいう。これが江戸時代になってもまだ評判が良かったらしく曾良の名勝備忘録にも『・・・今モ国主へ十符ノコモアミテ貢ス 道、田ノ畔也 奥の細道と云。 田ノキワニスゲ植テ有。貢ニ不足スル故 近年植ル也・・・』と書いている。奥の細道から2〜300m入った行き止まりなっている谷間で そこに住むおばさんに聞いたところ最近まで近所のお宅の庭さきに少し生えていたが・・・と指差したが 12月下旬のため定かにはわから無かった。 又その隣に住むおじさんも親切にもその庭まで案内してくれたがやはり形跡が無かった。そしてそのお宅の前辺りに池があったともいうが 今は総て宅地になってしまいその面影もないのが残念だ。関心ある方がしょっちゅう見に来るそうです。その割りに町や市の案内板が無いのが少し抜けている様に思えもったいない事です。猶この谷の北方数キロに青麻(そ)神社がある 852年(仁寿2年)建立と伝える由緒ある神社である。其の名のとおり里人に麻の栽培を教える為に 山城(京都)国から現宮司の遠祖である穂積保昌がやって来たと言うのである。『からむし織り』の様な物なのかもしれない。地名も麻から起きたもので 神紋も麻の葉であると言う。やはりこの辺りは往時は麻とか菅とか繊維質の有益な植物の産地だったことは間違いないのではないだろうか。今はその谷に何の跡形もないのが寂しい。(平成15年1月1日)(参考 岩切 新しい杜の都づくり宮城野区協議会  青麻神社栞) 大日本地名辞書 吉田東伍) 
 十符の菅薦




左車のある方が奥の細道 右が十符の谷入り口 200m位で行き止まりになる 戦後ここは引揚者が入植したと言う 冬のせいで日当たりもなく充分に谷の雰囲気はあるが沼地や十府の菅は消えてしまった

左の画像の右側の道を入った所 手前から2本目の電柱のある辺りのお宅の庭に菅が有ると言うが冬枯れで定かでなかった また其の前辺りに池があったというが総て住宅になって面影すらない 此処が有名な歌枕の地であったとはとても想像できないのだ
仙台市泉区在住の八巻氏が撮影した画像です 許可を得て掲載しました 私としては読み聞きはしていましたが初めて拝見できました 又上にある画像の十府の池跡・十府の谷も是非この目で見たいと思っています