故郷は げにいかなれば 夢となる 後さへなほも 忘れざるらん      宗久              
歌枕と言う訳ではないがこの墓は朝鮮か唐の帰化人らしい。 東山道が名取の里岩沼で浜街道と交わる驛玉前(現南長谷玉崎)にある。 今県道38号線が東北本線を横切った所にある前方後円墳と言う(千貫神社宮司)。残念ながら草茫々で手入れの跡もなく古墳とは見えないのが寂しい限りである。ここは千貫山の麓にあり本物の東街道沿いと千貫神社の正面にある。所謂ここから名取の橋までが名取の里で 東街道の入り口にあたる。古墳なら西暦4~5世紀位まで遡るのだろうか。大和朝廷の支配が未だ及ばぬ時代にもう外国人がこの地に住み着くとは信じ難い。火のない所に煙は立たないからきっと朝鮮半島からの帰化人なのかも知れない。そう言えばここより山を西北に越えた川崎町に新羅の郷の地名があるのです。支倉六右衛門常長の生まれた所だが、ここは後三年の役で新羅三郎義光新羅の帰化人37人を連れて来て20名を槻木の入間田に、17人を川崎町に住まわせたと言う昭和45年10月突然韓国からその末裔が祖先を訪ねて来て地元の人を驚かせたという。堺の商人・茶人宗久がその紀行文の中で『逢隈川の舟より下りて 行く道の辺りに 一つの塚あり 往来の人の所為と覚えて あたりの木に詩歌など多数書き付けたり 昔 とうへいわう と云ひける 唐人の墓なり 故郷を恋ひつつ 此処にて身まかりけるが その思ひの末にや 塚の上の草木も 皆西へかたむくと申しならわせり と語る人ありしかば いと哀れに覚えて・・・・・・・・』と記して上の歌を詠んでいる。どんな事情でここにあるのか知る由もないが一人の悲しい運命がこの藪の中に眠っている。(平成14年9月30日)(川崎町の文化財 川崎町 大日本地名辞書 吉田東伍)
  東平王墓

 











左中 千貫神社前の東街道

千貫神社 729年(天平元年)創建 漁船守護の神として千貫標松山嶺(191m)にあった 前の道が東街道古道であるが県道38号として右隣に東北本線を跨ぐバイパスが通る 入り口に千貫神社 出口に熊野本宮社と名取の郷の東街道はロマンの道だ
上右 千貫山 横に走るのがR4号線 縦の路が浜街道か?私の後ろに阿武隈川の稲葉の渡しがある この辺りが浜街道と東山道の玉前分岐点

 東平王墓古墳であるが草茫々で古墳の姿が見えない 神社前の東街道沿いにあり共に歴史の古さを思わせる
  古代玉前の柵もこの辺りにあったかも知れない 千貫山の松山は南は相馬沖 北は塩釜沖からも見えて船の位置を知る重要な目印で千貫の価値がある松なので千貫松山と呼ばれた 舟の位置で松の数が変化したと言う 往時は松の本数も見事だったらしい