小余綾(こよろぎ)の磯     大磯から国府津の海岸一帯       

こゆるぎは 小揺 小淘綾 小動 余呂伎とも書かれた古くからある大和言葉で和名抄に相模国余綾郡余綾郷とあり大磯町当たりに該当とある 辞書によると こゆるぎ とは『少し揺れること』『わずかに揺らぐこと』とある 反対に現在でも使われてるのが 揺るぎない では『ゆらぐことがない』『不動である』 とある 又江戸時代の浅井了意の書いた東海道名所記に『大磯のうらハ海にて名物の小石あり 五色にてうつくしけれバ人愛して盆栽に入れてもて遊ぶ』 とある 大磯は旧東海道がその海浜近くを通っていて現在も江戸時代の松並木が数カ所残っていて風光明媚・気候温暖の地 藤・松・千鳥で名高い歌の題材をなしている そのた政財官界や文人名士の別荘が多数存在している ここは湘南の地名発祥の地であり日本海水浴場発祥の地 日本の渚100選でもある

 相模路の  余綾の浜の 真砂なす 児らは愛しく 思はるるかも                 万葉集巻14-3372

          大磯や 小磯の浦の 浦風に 行くとも知らず かへる袖かな              海道記 読み人知れず                    

玉垂の こがめやいづら こよろぎの 磯の浪分け 沖に出でにけり             古今和歌集 藤原敏行 

君を思ふ 心を人に こゆるぎの 磯の玉藻や いまもからまし              後撰和歌集   凡河内躬恒

とふことを まつに月日は こゆるぎの 磯にや出でて 今は恨みん             後撰和歌集   右近

いかにして けふを暮さむ こゆるぎの 急ぎ出でても かひなかりけり           拾遺和歌集 小弐命婦

知る人も 渚なりける こゆるぎの 急ぎいでてぞ 悔しかりける               拾遺和歌集 藤原伊尹

こゆるぎの 磯ぎて逢ひし かひもなく 浪寄りこすと 聞くはまことか            金葉和歌集 源 顕国

  こよろぎの いそぎて来つる かひもなく またこそたてむ 沖つ白波            拾遺和歌集 読み人知れず

浦風や 吹きまさるらむ こゆるぎの 磯の波間に 千鳥鳴くなり            続千載和歌集 読み人知らず

  玉垂の こがめやいづら こよろぎの 磯の浪分け 沖にいでにけり              古今和歌集 藤原敏行

  こよろぎの 磯立ちならし 磯菜つむ 少女濡らすな 沖にをれ波                古今和歌集 東歌

    大磯や 小磯の浦の 浦風に 行くともしれず かへる袖かな                    海道記 読み人知れず

こゆるぎの いそがぬ旅も すぎて行く 別路とめよ 足柄の関 
                 東海道旅日記
 
 湘南発祥の地碑 大磯 中郡大磯町大磯1289  鴫立庵の入り口 中 湘南発祥の地発祥の由来の説明板 石碑の隣にある 崇雪という人が寛文4年(1664)頃西行法師の詠んだ歌 こころなき 身にもあはれは 知られけり  鴫立澤の 秋の夕暮 を慕って草庵をここに結び標石をたてて東海道を往還する旅人に鴫立澤を「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えて刻んだのがはじまり 中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになりました 平成八年四月 とある 尚崇雪小田原外郎家の子孫という  右 湘南発祥の地 大磯 著盡湘南清絶地の碑 中郡大磯町大磯 大磯駅前 一般的に神奈川湘南海岸と言うと茅ヶ崎市海岸から鎌倉市海岸当たりを指すようである

左端 海内第一避暑地の碑 大磯駅前 明治41年日本新聞社が避暑地の優良なところ募集したところ大磯が第一位となった 因みに2位軽井沢 3位天竜峡 4位伊東 5位修善寺・・・鎌倉11位江島39位 葉山59位 上中左 海水浴場発祥の地碑 大磯町大磯1398 明治18年天与の自然に恵まれた大磯照ヶ崎海岸に日本で最初の海水浴場を開いた軍医総監松本順先生は国民の健康増進と体力向上を図るため海水浴が良いと説きその頃の有名な歌舞伎役者を大勢連れてきて寿龍館に泊まらせて海水浴をさせて大磯町の名を日本中に広めました 昭和59年6月24日 親しまれて100年 逢いに来て大磯の夏 と彫られている 上中右 大磯町のネットに載っていた元祖海水浴場のポスター 上右端 軍医総監 松本順閣下の謝恩の碑 揮毫犬飼毅 大磯町大磯1398 松本は伊藤博文に掛け合って横浜‐国府津間までの延長が決まっていた東海道線に大磯停車場(駅)を実現させ旅館と病院を兼ねた祷龍館を建設するなどの功績を大磯に残した 大磯停車場の開設で海水浴客は増え続け伊藤博文をはじめ温暖な気候を気に入った政財界の重鎮らも居を移したり別荘を構えるなどして大磯は発展してきた 照が崎海岸は今コンクリートで泳げない

 
こゆるぎの浜 照ヶ崎海岸 古くは余呂伎 余綾の浜ともいわれ砂礫の美しい海岸でさざれ石と呼ばれた様に色々な色をした小石が見られ地勢海岸甚だ他方に優れて気候温暖にして山高からず  又東海道名所紀には『大磯の浦ハ海にて名物の小石あり 五色にて美しけれバ人愛して盆栽に入れてもてあそぶ』とある 
 上 坂田山心中事件 手前JR大磯駅 後ろが坂田山 昭和7年5月8日この山中で恋愛関係にあった東京府の男爵調所広丈の孫で慶応大学24才の五郎と静岡県の素封家湯山家の八重子22才が湯山家の反対のため心中だった 共に良家の心中事件のため新聞・雑誌・ラジオ等のマスコミも大々的に取り上げ一大センセイションを巻き起こした 更にその上マスコミ賑わす大事件が起きた 両家が死体引き取りに来るまでお寺に仮埋葬されていた女性の死体が翌日忽然と消え女性の着物が散乱していたと言う猟奇的事件に発展した 翌日発見された女性の遺体はきれいだったという警察の発表により新聞各紙は二人がプラトニック・ラブを貫いて心中したことを盛んに報じた 東京日日新聞「純潔の香高く 天国に結ぶ恋」の見出しを掲載した 『天国に結ぶ恋』は坂田山心中事件の名文句となりロマンチックに美化され映画は20数本上映されこの山での心中が20件も発生した 大正3年生まれの母親は良く天国に結ぶ恋の歌を歌っていたので若い頃から気に掛かる場所でした 尚坂田山の正式名称は八郎山ですがそれではマスコミ・メディアは情緒がなく売れないので地名の坂田の名に勝手に改名したもの
 
上 高麗山 神奈川県中郡大磯町大磯  国道1号線花水橋を渡れば平塚と大磯の境にある 花水川の袂にある標高168m 広葉樹の自然林が残り21世紀に残したい日本の自然100選の一つ  歌川広重の東海道五十三次の浮世絵では平塚の宿に描かれている  その名の通り勿論古代朝鮮からの渡来人が多数移住したところである 麓には高来神社(旧高麗神社)がある
上左 高来神社(高麗神社) 中郡大磯町高麗2-9-47 668年新羅によって高句麗国が滅亡された折り高句麗の王族若光は大磯の地を含む武蔵国に大陸文化を伝え高句麗人の若光を郡長として武蔵国高麗郡に移され開発を命ぜられた 桓武天皇の皇后は高句麗人と言われ埼玉県には立派な高麗神社がある そのせいか政治家や皇族の寄進した碑や樹木が沢山ある 大磯八景 高麗寺晩鐘 さらぬだに 物思はるる 夕間暮れ きくぞ悲しき 山寺の鐘 高来神社の近くにあるはずが発見できず 上中左 大磯八景碑 花水橋の夕照 橋の袂 高麗山に 入るかと見えし 夕日影 花水橋に はえて残れり 上中右 大磯八景 化粧坂の夜雨 中郡大磯町大磯 雨の夜は 静けなりける 化粧坂 松の雫の おとばかりして 右端 大磯八景 唐(もろこし)ヶ原の落雁 霜結ぶ 枯れ葉の葦に 落ちていく 雁の音寒し 唐ヶ原 この碑は一般家庭の入り口にある

左端 化粧井戸 中郡大磯町64-4  大磯の遊女で仇討ちで有名な曽我兄弟の兄の祐成の愛人 このあたりに済んでいてその化粧に使われた井戸と言われる 上中左 旧東海道化粧坂(けわいざか)の松並木 上中右 化粧坂の一里塚  右端 黒部の宮(大磯八景) 平塚市唐(諸越)が原  更級日記(藤原孝標女)ではこの「もろこしヶ原」に「やまとなでしこ」が咲いている対比を面白がっている 『夏はやまとなでしこの濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる これは秋の末なれば見えぬといふになほ所々はうちこぼれつゝあはれげに咲きわたれり もろこしが原にやまとなでしこも咲きけむこそなど人々をかしがる』云々  ヤマトナデシコ(カワラナデシコ)は日本原産で広く開けた土地に自生するので花水川の流域に咲いていたとしても景観的には全く自然である とあり当時は絶景の地だったようだ 聞き知らぬ 獣のこゑも 吹きたちて 野風はげしき 諸越が原 志濃夫迺合歌集 橘曙覧

 
 東海道五十三次大磯宿 江戸から8番目の宿
 左端 大磯八景 照ヶ崎帰帆の碑 大磯町大磯1398 漁り火の 照ヶ崎まで つづく見ゆ いか釣り船や 今帰るらん  上中 大磯八景 富士山の暮雪 中郡大磯町東小磯 大磯小学校近く くれ染めて 紫匂ふ 雪の色を みはらかすなり 富士見橋の辺 以上2つはネットより拝借 右端 大磯八景 鴫立澤の秋月 中郡大磯町大磯1289  さやけくも 古にし石文 照らすなり 鴫立澤の 秋の夜の月 鴫立庵入り口にある 大磯八景 小余綾の晴風 現在この碑は無 小松原 けむる緑に 打ち晴れて 見渡し遠く 小余綾の浦 
 左端 大磯町役場前にある万葉歌碑  相模路の 余綾のはまの 真砂なす 児らは愛しく 思はるるかも 巻14-3372 相模の余綾の濱の真砂の砂が美しいようにあの児このことが可愛く思われる 中 西湘バイパスからのこよろぎの濱 西湘バイパスは中郡大磯町から小田原市を結ぶ自動車専用道路であり一般国道1号のバイパスである この右の松の中が政官界の別荘地が並ぶ 右端 旧東海道の松並木 この松並木の左側には陸奥邸・鍋島邸・大隈邸・伊藤邸滄浪閣・伊達邸・吉田茂邸など蒼々たる別荘がある
左端 群生山大運寺 大磯町大磯1004 海援隊士 男爵中島信行夫妻の墓(左) 右俊子   彼は土佐勤王党に加盟したのち脱藩し坂本龍馬の海援隊に加わり活躍する  初代衆議院議長 肺結核にて大磯で54歳死去 妻は陸奥宗光の妹で初穂 死別後後妻に岸田俊子は土佐郷士で女性解放運動家 上中右 宮経山延台寺 中郡大磯町大磯1054 曾我十郎と結ばれた舞の名手虎御前が開いたお寺  曽我十郎の険難を救った身代わり石で門前左の石柱には曾我兄弟霊象 十郎祐成身代わり虎御石とある  右端 曾我十郎祐成の身代わり虎御石説明板 説明文の一部には 『・・・虎御石とて丸き石あり よき男があぐればあがりあしき男の持つればあがらずと云ふ色好みの石なり・・・』とある 江戸のユーモアたっぷりだ
左端 法虎庵曾我堂  中 堂内の説明板 堂は曾我兄弟が親の敵を討ち自らも命を落とした後に虎御前は19才で剃髪し兄弟の菩提を弔うため庵を結んだ所 堂内には十郎身代わり御霊石虎御石(右端) 曾我兄弟座像 虎御前剃髪座像 広重作 曾我物語図絵・路上の虎御石 国芳作 夜討曾我の図絵等がある
左端 新島襄終焉の碑 中郡大磯町大磯1104 昔百足屋旅館の一室で亡くなるその跡地にある 明治23年1月23日 四七才 徳富蘇峰揮毫による 中 平民宰相腹敬の別荘跡 大磯町大磯現1392 現在は個人庭だが照が崎海岸近くで海水浴場発祥の地の近く  右端 島崎藤村夫妻の墓がる船着山地福寺 中郡大磯町大磯1135 梅の名勝である 夫婦の墓は彼の愛した梅の古木の下にある 
 左端 地福寺の中野島崎藤村夫妻の墓 紅梅下にある 中左 島崎藤村の墓 中右 藤村夫人の墓 厳寒の故郷信州木曽に比べて温暖な大磯に永眠を望んだのでしょう 右端 エイザベスサンダースホーム 澤田美喜記念館 中郡大磯町大磯1152 もう殆どの人には聞き慣れない名である 戦後の進駐軍兵士と日本人との間に出来た所謂GIベビー 貧困と偏見に曝されてる子ども達のために三菱弥太郎の孫娘澤田美喜が財産税で物納されていた岩崎家大磯別邸を募金400万円で買い戻して設立された 施設名は第一号寄付者である聖公会のイギリス人エリザベスサンダースの名にに因んでいる 現在学校法人聖ステパノ学園小中学校である 中へは立ち入り禁止の看板があり入り口からのみである