馬来田(うまぐた・まぐた)の嶺(ね)
君津市~木更津市の小堰川の流域にかけては古代馬来田国造(くにつこ)の国府の地と伝えられている その馬来田の嶺ろとは市原市の南から袖ケ浦市を経て木更津市へなだらかに下がる丘陵を意味する 又上総とは須恵の国と馬来田の国からなり更に後に馬来田の国は望陀郡と野蒜郡の2つの国に分かれる そして馬来田の嶺ろは望陀郡の山々のことらしい  木更津市真理谷には今も馬来田駅・馬来田小学校の名前が残る この地は明治時代は望陀郡(もうだぐん)馬来田村と呼ばれていた地である 

宇麻具多能 祢呂乃佐左葉能 都由思母能 奴礼弖和伎奈婆 汝者故布婆曽毛
馬来田の 嶺ろの笹葉の 露霜の 濡れて我来なば 汝は恋ふばそも     万葉集巻14-3382

宇麻具多能 祢呂尓可久里為 可久太尓毛 久尓乃登保可婆 奈我目保里勢牟
馬来田の 嶺ろに隠り居 かくだにも 国の遠かば 汝が目欲りせむ    万葉集巻14-338
 
 
上段左 馬来田駅 木更津市真里107 JR久留里線(木更津駅~上総亀山駅 営業距離32kmのローカル線) 上段右  万葉歌碑馬来田の歌碑の説明 袖ケ浦郷土博物館万葉公園  袖ケ浦市飯富2360  下段 左端 馬来田の嶺ろの歌碑 馬来田駅構内 上左中 旅衣 八重着重ねて 寝のれども なほ肌寒し 妹にしあらねば 巻20-437 望陀郡出身の防人の歌 上中右 大君の 命かしこみ 出でくれば 我の取り付きて 言ひし子なはも 巻20-4358 周准郡(須恵郡)出身の防人の歌 右端 馬来田の嶺ろの歌碑 袖ケ浦郷土博物館万葉公園
 
上 木更津太田山公園 恋の森橘神社(中) 君去らずタワーの日本武尊と弟橘姫の像(右) 木更津市太田2-16   さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも 古事記 弟橘比売 姫『あれ御子にかはりて海中に入りなむ 御子は任(ま)けらえし政(まつりごと)遂げて覆奏(かへりごとまをし)たまはね』と言って菅畳八重・皮畳八重・きぬ畳八重を波の上に敷いてその上に降りた  下 左2つ 日本武尊縁の吾妻神社 木更津市吾妻2-7-55 祭神は弟橘姫で日本武尊の東征の折り相模から上総へ渡ろうとしt時海上にわかに荒れ狂った為自ら身を投じて海をなだめた その数日後に姫の着物の袖がこの近くに漂着したのでこれを納めて建立したと言う それでこの地が袖ケ浦市の遠因となる 吾妻神社の石柱には 君去らず 袖しが浦に 立つ波の その面影を 見るぞ悲しき とある 吾妻の森の池の水で喉を潤し鏡のかわり乱れた身なりを整えたとか姫の鏡を沈めたところ との伝承の鏡が池 下右端 恋人の聖地の碑 木更津市中之島 背後の赤い端は高さ27m・長さ236mの日本一高い歩道橋夕暮れ時には東京湾と富士山・太陽の日没がロマンチック  袖ケ浦は日本武尊・弟橘姫の悲恋やお富与三郎の見初めた地から恋人の聖地になったのかも知れない
 
 
 上左 お富与三郎見染の松 木更津市富士見3-7恋人の聖地近く 江戸の大店の若旦那であった与三郎が潮干狩りに行きお富と出会い見染めた場所 また逢瀬を交わし合う時に着物の袖を松の枝にかけて儚い恋を語ったということもあり別名「袖掛けの松」とも呼ばれている 上中 与話情浮名横櫛 初演時に製作された役者絵 三代目歌川豊国画 ウイキペディアより 上右 粋な黒塀 見越しの松  www.wordfolksong.comより拝借 和泉屋の大番頭多左衛門に助けられて妾となっていたお富さんの囲われていたのもこんな風情か? 
 
 上左 玄冶店(ゲンヤダナ)  中央区日本橋3-8 江戸時代の御典医岡本玄冶の屋敷跡でその貸家に多くの役者・芸人がが住んでいた所 『ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ、いやさお富久しぶりだな~』の名セリフが語られる源氏店(ゲンヤダナ)の場面 当時土地の実名使用は御法度だったので源氏名にした  上中・右 切られ与三郎の墓と吉祥山光明寺 木更津市中央1丁目3−5   (なにごと)に ふと木更津の里 過れども 猶も吾妻の うちとこそ聞け   回国雑記 聖護院准后道興
下 与三郎の手下こうもり安の墓・浮世絵 選擇寺 木更津市中央1-5-6  木更津生まれで紀の國屋という油屋を営む裕福な次男坊だったが無宿賭博仲間と交わり無法者の評判が立つ 与三郎と一緒にお富宅へユスリに行く(http://kazusa.jpn.orgより拝借)  右端はこうもり安のお墓の隣にある一茶の句碑 藤勧進之句碑 藤さくや 里はすらりと 更衣  文化六年3月6日 
 
馬来田の 嶺ろに朝日の 影見えて 笹葉の霜も 玉と見るまで                松平 定信