真 間 の 継 橋 
古に 在りけむ人の 倭文幡の 帯解きかへて 伏屋立て 妻問しけむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城を こことは聞けど 
真木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき言のみも 名のみもわれは 忘らゆまし
     万葉集巻3-431 山辺赤人
        かち人の 渡ればゆるぐ 葛飾の ままの継橋 朽ちやしぬらん             鎌倉幕府3代将軍源実朝   
    わすられぬ ままの継橋 思ひねに かよひしかたは 夢にみえつつ        藤原定家           
 
国府台城里見公園 市川市国府台3-9  上左 国府台城跡の碑  上中 僅かに残る石垣が  上右端 里見軍弔い群忘の碑 この地は天文・文禄の2度戦国大名北条氏康と安房の里見氏との合戦の地である  上の碑のうち 左 里見諸士群忘塚 中 里見諸将霊墓 右 里見広次公廟碑 天文の戦いでは北条氏綱と足利義明・里見義堯 文禄の戦いは北条氏康と里見義堯・里見義弘との戦いである 子どもの頃読んだ江戸時代滝沢馬琴の小説南総里見八犬伝の地が身近に感じた 南総里見八犬伝の地は南房総市上滝田にあり滝田城が発祥の地とあるそうだ 
 
 上左 北原白秋紫烟草舎 国府台城跡内 当時江戸川区小岩にあったが江戸川改修工事のため取り壊されたものを里見の地に移築した 千町田の ほなみがすゑを 群雀立つ の歌碑あり 上中 里見公園 羅漢の井  上右 明戸古墳棺遺跡 じつはここは全長40mの6世紀に造られた前方後円墳で2つの石棺がむき出しのままある 華やかに さびしき秋や 
 
上左端 国府代合戦 里見軍小弓義明戦死の陶板の絵                      上右端 江戸川  国府台里見公園から江戸川対岸東京都江戸川区を望む 
勝鹿や むかしのままの 継橋を 忘れず渡る 春霞かな       新勅撰和歌集 慈円
 
 真間の継橋  市川市真間4-7  橋の下に水はありません と言うより川がありません 国府台に下総国府の置かれていた頃上総の国府への官道は市川砂州上を通ていた 砂州から国府台の大地に登る間の入り江の口にいくつかの洲が出来ていてその洲から洲にかけ渡された橋が万葉集に詠まれた真間の継橋だ と説明版にある 橋の両側に下の歌碑がある
下右端 歌碑
 
 足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ     巻14-3387 
 
上左端 真間の継橋 正面の森が弘法寺 上中左 継橋 継絶興廃維文維板 詞林千歳萬葉不凋  真間の三碑の一つで万葉集巻14-3387の歌が彫られているが旨く読めない
 上中右  
ここに人を 渡しはてんと せしほどに 我が身はもとの ままの継橋    日蓮 
上左 手児奈霊堂入口   右下の碑が真間の三碑の一つ 碑文 真間娘子墓 今手児奈?? 真間井 在鈴木院之中 と彫られていて 碑には下の歌が彫られている
われも見つ 人にも告げん 勝鹿の 真間の手児奈が 奥津城ところ     万葉集まき3-432    奥津城=墓
上右 手児奈霊堂の歌碑    勝鹿の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児奈し思ふに    万葉集巻9-1808 
日蓮宗寺院亀井院の入口に三碑の一つがあるが気付かなくて残念  碑文には 真間井 瓶甕可汲固志何傾 嗚呼節婦与水冽清 とあり万葉集巻9-1808の歌が彫られているようである
    
 上左 手児奈霊神堂 市川市真間4丁目5−21 奥津城跡(墓)される所に文亀元年(1501)に弘法寺の七世日与上人が手児奈の霊を祀るために建立 今から1300年ほど前真間の井(亀井院)に水を汲みに行く一人の女性がいた 名前は手児奈 身なりは粗末だったがとても美しいと評された 多くの男性から結婚を求められたが 『私の心はいくつでも分けることはできます でも 私の体は一つしかありません もし 私が誰かのお嫁さんになればほかの人を不幸にしてしまいます』となやみ海に行く(当時は真間山の下は海だった) そのころ日没になろうとしていた 『そうだ あの太陽のように』と思って海に身を投じた これを悲しんだ人たちは手児奈霊神堂を建てて祀った 説明板 上中  真野の入り江の名残の池 手児奈霊堂脇にある沼 上右 真間の井と歌碑(万葉集巻9-1808) 亀井院境内 市川市真間4丁目4-9  蛍飛ぶ 真間の小川の 夕闇に えびすくふ子か 水音立つるは と北原白秋の歌碑もる  白秋は一時亀井院の近くに住んでいた  葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を 下総国相聞往来歌 詠み人知れず 下右端 入江橋  
 
葛飾の 真間の入り江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児奈し 思ほゆ   万葉集巻3-043 
葛飾の 真間の浦廻みを 漕ぐ舟の 船人と騒ぐ 波たつらしも       万葉集巻14-3349
葛飾の 真間の手児奈が ありしかば 真間のおすひに 波もとどろに  万葉集まき14-3385
万葉の時代江戸川の河口は現在より北にあり東京湾の海岸線も北に入り込み入り江の様になっていた 真間の浦廻みはこのような河口域周辺の状況を示してる 又現在の江戸川に流れ込む真間川の河口付近から東に向かって奥深い入り江が出来ていた これが真野の入り江だ 江戸川のような大きな川の河口域では海の干満と川の流れによって水の流れは複雑になる そこに大きな砂州が幾つも出来た 国府台に下総国府が置かれたころ上総国府との官道はこれら砂州上を通っていた その洲に架けられたのが真野の継橋なのだ(説明板による) 上中 真間川 
 
総武線市川駅から弘法寺までの間2km程の直線的な大門通り両脇の個人の家の塀などに上の様な万葉の歌30ほど張られていた 左 巻10-2119 中 巻8-1443 左 巻8-1424
曇りなき 影もかわらず 昔みし 真間の入り江の 秋の夜の月       続千載和歌集 藤原 為教
 
上左端  真間山弘法寺仁王門  市川市真間4-7-7  真間山弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代天平九年(737)行基菩薩がこの地に立ち寄ったとき里の娘 手児奈 の哀話を聞きいたくその心情を哀れに思い一宇(いちう)を建てて求法寺(ぐほうじ)」と名づけ手厚くその霊を弔われた  それから凡そ百年ほど経た平安時代弘仁十三年(822に弘法大師(空海)が布教に来られた時求法寺を七堂伽藍に再建され寺運を一新して求法寺を弘法寺と改称した(説明板) 上中左 一茶句碑  真間寺で 斯う拾ひしよ 散紅葉  弘法寺は古来紅葉の名所として有名   上中右 水原秋櫻子句碑 梨咲くと 葛飾の野は とのぐもり 共に仁王門の両脇にある 上右端 弘法寺祖師堂 開山の像をお祀りしてるお堂
 
國重要文化財 法華寺大祖師堂 市川市中山2-10-1  祖師堂は宗祖日蓮上人をお祀りする御堂 最初は鎌倉時代正中2年(1325)に建立 現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝2年(1628)に上棟されたもので建物は大規模な七間堂で屋根を二つ並べたような比翼入母屋造りが特徴で全国に岡山県吉備津神社本殿だけ 中には日蓮の国重文立証安国論がある  上右端 国重文法華寺五重塔 元和8年(1622)に本阿弥光室が両親の菩提を弔う為に加賀藩前田利光公の援助を受けて建立したもので高さ30m
鳰鳥の 葛飾早稲を にへすとも その愛しきを 外にたてめやも        万葉集巻14-3386
      
 
市川市指定有形文化財 常夜灯公園   市川市本行徳34 上の常夜灯は明治時代の成田山土産尽の絵に描かれているように行徳新河岸にあっ   この常夜灯は文化9年(1812)江戸日本橋の成田講中(成田山新勝寺への講)の人々が建てたもので航路の安全を祈願して建立 江戸時代成田山新勝寺には江戸から多くの人々が参詣した  行徳は江戸から成田にかけて重要な中継地でした この船は行徳船とも呼ばれ江戸川を下り新川・小名木川を経由して日本橋小綱町まで約12kmを就航していた 下は常夜灯を中心に江戸川で 左が上流 右が下流