湊川(湊川神社) 神戸市中央区多門通り3丁目
湊川と言えば楠木正成 楠木正成と言えば戦前愛国忠臣の鑑ともてはやされた人物 ここは楠木正成・足利尊氏の血戦の地である 下は摂津名勝絵図で下左 中央松並木が湊川で中央に楠碑の御堂が見える 下右 右下小集団が楠木軍の武士集団である 当時の湊川は今はなく新湊川がある
湊川 夏の行くては 知らねども 流れてはやき 瀬々のゆふしで 順徳院
旅衣 朝たつ袖の 湊川 かはらぬ瀬にと なほや頼まむ 今川了俊
月と日と 昔をしのぶ 湊川 流れて早き 菊の下水 坂本龍馬 |
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上 湊川神社表門 総檜造りの重厚感あふれる荘厳な門で タクシーの運転手は『神戸で一番立派な神社です』と言っていた 右 湊川神社社殿 昭和27年10月24日に復興新築され権現造に似た八棟造りの鉄筋コンクリート造で戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物 本殿は三つの扉が見え三座に分かれ祀られている 中央の扉の奥に主神の正成公 向かって右には正成公夫人 向かって左には子の正行公と正成公弟の正季卿以下一族十六柱並びに菊池武吉卿が祀られている。 |
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立入不可 ネットより拝借 |
上 国指定史跡大楠公一族殉節の地 楠木正成兄弟の殉節地はさらに玉垣の奥 紙垂(しで)の下がる注連縄に囲まれた場所 『七度生まれ変わって朝敵を滅ぼさん』と叫んで果てたと伝わる楠木正成兄弟と一族16騎・郎党60余人と共に自刃の地 自刃の跡地に明治元年明治天皇は大楠公を千載の一人 臣子の亀鑑として鎮祭すべき旨創建 楠木正季(弟)『七たび生れて朝敵を滅ぼさん』 楠木正成『罪業深き悪念なれどもわれもかように思ふなり いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん』 楠木正行(長男)『かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる』 太平記に残る三者三様の名言はこの地での辞世なのかも知れません
湊川 夕汐みちて 風寒み 古き都に 千鳥鳴くなり 夫木和歌集 雅有
水門川 秋行く水の 色ぞこき 残る山なく 時雨ふるらし 新勅撰和歌集 内大臣
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上左 楠木正成像(仮置き場) 神戸市兵庫区湊川公園20 18年度末完成予定の兵庫区役所建て替え工事に伴い湊川公園(神戸市兵庫区荒田町1)内に仮置 楠木正成の銅像が移設される 大楠公殉節600年祭があった1935(昭和10)年に神戸新聞社が寄贈 像は高さ3メートル、台座5メートルで甲冑にて馬にまたがる姿 上中 皇居外苑の正成像 何が起こってもすぐ駆けつけられるようにと皇居の方を向いて楠木正成は建てられてる まさしく忠臣さながらの扱いです 像本体の高さは約4m・台座も加えると約8mもあります この銅像は別子銅山を開いた住友家が開山200年の記念として企画し東京美術学校に依頼し作成し宮内庁へ献納したもので高村光雲など東京美術学校の職員らにより当時の技術の粋を集めて作成され明治33年7月に完成し献納されたもの 上右 旧湊川城址 湊川公園内(神戸観光写真集より拝借)
水門川 うきねの床に こよひこそ 秋をつげ野の 鹿もなくなれ 夫木和歌集 左近中将公衡 |
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上 新湊川 別の流れで面影はない 神戸観光写真集より拝借
左 会下山は湊川の戦いで楠木正成が陣を置いた地 碑文は東郷平八郎の筆 |
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上左 従是楠公石碑道 上中 国指定史跡 楠木正成墓碑 上 右楠木正成墓地 正面鳥居入るとすぐに右に折れる
湊川 うは波はやく かつ超えて 汐までにごる 五月雨の頃 新拾遺和歌集 前中納言為相 |
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この墓碑は延元元年5月25日御殉節されたのち150余年を経た元禄5年(1692)12月21日徳川光圀公によって建立された 碑面八文字『嗚呼忠臣南子之墓』は光圀公自筆 この裏面には明の遺臣朱舜水の撰文が彫られている 上左 楠木正成墓碑 上中 嗚呼忠臣南子之墓 上右 徳川光圀公像
湊川 夜船こぎいづる 追風に 鹿の声さへ せと渡るなり 千載和歌集 道因法師
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徳川光圀公頌徳碑 |
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明治天皇御製
湊川懐古 表門入口
あだ波を 防ぎし人は
みなと川
神となりてそ
世を守るらん
水門川 うきねの床に
きこゆなり
生田の奥の
すをしかの声
千載和歌集 兵部卿載兼
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