三浦が崎(三浦半島)

芝付きの 美宇良崎(みうらざき)なる ねつこ草 相見ずあらば 我恋ひめやも   万葉集巻14ー3508
三浦が崎に生えている芝付きの根っこ草のようなあの娘にもし逢うことがなかっtならこんなに恋い焦がれることもなかったろうに (根っこ草=おきな草)

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも       古事記・日本書紀 弟橘姫
 弟橘姫が三浦半島走り水で海中に身を投ずる際に詠んだ歌 
 相模の小野の荒野の燃えさかる火の中で御身に危険が迫っている中でも私のことを気遣ってくれ貴方様よ
弟橘比売は 倭健命(日本武尊)の思い出を胸に幾重もの畳を波の上に引いて此処三浦半島走り水の海に入るのである 七日後 比売の櫛が対岸に流れ着いたので御陵を造って櫛を収めた
「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した倭健命が神の怒りをかったと記され同様に妾の弟橘媛の犠牲で難を免れたと記されるが和歌はない(ウイキペディア)
上左 横浜市有形文化財伊藤博文金沢別邸 横浜市金沢区野島町24 野島公園の松林に囲まれた茅葺きの木造家屋 純和風建築2100坪の広大な敷地に建坪110坪 前面に乙舳の海を一望できる ここには大正天皇や裕仁親王(昭和天皇)・韓国皇太子はじめ多数の政府高官が招かれた 上中・右 明治憲法起草地記念碑 横須賀市夏島2 伊藤博文らが明治憲法の起草をした夏島の別荘跡地に大正15年(1926)11月草案に加わった伊東巳代治・金子堅太郎らが発起人となり建立された 碑の基石は明治憲法全76条を示す76個の御影石からなり縦横22尺2寸1分1厘(約6.7m)の大きさは憲法発布の日明治22年(1889)2月11日を表している
横須賀市浦郷町5(貝山公園内)  上左 予科練誕生の地碑 海軍予科飛行練習生(別称海軍少年航空兵)の碑  昭和5年の第一期から昭和14年の第10期生が霞ヶ浦に移転するまでの訓練地  中 海軍甲種飛行予科練習生鎮魂の碑 戦局の悪化により大空の果て海原の底に散った甲飛の御霊は実に六千七百七十八柱にのぼる その中の一人は次の歌を残して散華した 『 血潮もて 茜と染むも 悔ゆるな 雲を墓標の 空の御盾は』  私達は国家危急の折救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念する とある  右 海軍航空発祥の地碑 大正5年(1916)3月に海軍航空隊令が発布され翌4年追浜に横須賀海軍航空隊が置かれた この時に飛行場を作るため海岸が埋め立てられ夏島は現在のように陸続きとなった
ウイリアムアダムス夫婦墳墓在於塚山絶頂
横須賀市西逸見町3-57  塚山公園内
国指定の史跡三浦按針夫妻の墳墓
右が按針の墓で左が妻の墓 三浦按針は本名をウィリアム・アダムズ  慶長5年(1600)台風に遭い生き残った乗員24名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着 徳川家康は三浦按針を高く評価し政治・外交顧問として重く用い江戸日本橋に屋敷をそしてこの地逸見村に250石の領地を与えて厚遇した 三浦の姓はこの三浦の地を領地としたことによる 按針の名は水先案内人を当時按針と称していたことによりる 家庭的にも恵まれ江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻としジョセフとスザンナの1男1女をもうけた 
上左 港が見える丘からの横須賀港 塚山公園    上右 海軍の碑  横須賀市汐入町1-1 ヴェルに-公園内  昭和20年の敗戦と共に80年に亘る歴史を閉じた海軍 終息50年の節目に当たる平成7年明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史並びに太平洋戦争で亡くなった多くの人々を偲び我が国の永遠の平和を希求するためこの記念碑を建立する趣旨が彫られている    
 
以下ベルニー公園内 左端 国威顕彰の碑 重巡洋艦高尾軍艦の艦橋を模した形の碑 昭和12年の海軍記念日に建立 戦後正面下部の碑板部分は剥ぎ取られた 多分八紘一宇の文字があったか? 中左 軍艦山城の碑 フィリピンで圧倒的多数のアメリカ艦隊との戦闘で沈没  乗員1600名余名が艦とともに運命を共にした 生存者はわずか10名だけとのこと 碑の裏には亡くなられた方の名前がぎっしり書かれている 中右 軍艦長門の碑 上段にありし日の長門のレリーフと下段に『聯合艦隊旗艦長門の姿をここに留めて昭和の激動の時代を偲ぶよすがとする』 の文字が刻まれている 右端 軍艦沖島の碑  昭和17年5月11日ソロモン群島ブガ島クイーンカロラ沖にて撃沈された日本最大の敷設艦  
以下ヴェルニー公園内 上左 開港石碑 江戸末期の幕臣小栗上野介とフランス人造船技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの功績を顕彰するため昭和28年に胸像とともに設置された 両名によって横須賀製鉄所(造船所)が建設され現在の横須賀発展の礎が築かれた  上中 左フランソワ・レオンス・ヴェルニー右小栗上野介忠順の胸像 上右 横須賀市指定市民文化資産 逸見波止場衛門 明治末期の建築 旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所で左右2棟あり左側は『逸見上陸場・右側は「軍港逸見門』と表示されてる
 
CEC搭載海上自衛隊最新鋭イージス艦 まや 令和2年3月19日完成引き渡しされた 正に横須賀ですね こんな間近に見れるとは
 上左 毎週金曜日は海軍カレー    中左 帝国海軍旗艦陸奥の主砲実物 全長18.8m・重量102t・口径41cm     中右 イージス艦2隻      上右 潜水
 横須賀市を象徴するどぶ板通りとプレート どぶ板通りとは横須賀市中心部にある全長300m程の通り・商店街  スカジャンの発祥地として有名  第二次大戦前この通りには道の中央にどぶ川が流れていたが人やクルマの通行の邪魔になるため海軍工廠より厚い鉄板を提供してもらいどぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれる
  
上左 歩道に埋め込まれたどぶ板通り スカジャン発祥の地プレート  上右 №16 作曲家ロック歌手宇崎竜童 №31 ドラム奏者ジョージ川口 他に №20横浜FC元サッカー選手奥寺康彦 №25ジャズ評論家本多俊夫 息子本多幸之はサックス奏者 №29ジャズドラマー日野元彦 兄日野皓正はトランペット奏者 №17作詞家エッセイスト阿木燿子 №10原信夫とシャープ&フラッツ ジャズトランペット奏者福原彰  №30ジャズシンガー阿川泰子など横須賀と縁が深いミュージシャンやスポーツ選手の手形レリーフがどぶ板通りには47枚ある
 
 日本遺産記念艦三笠 三笠公園 横須賀市稲岡町82-9 明治37年の日露開戦に於いて東郷大将率いる連合艦隊の旗艦 同年8月10日の黄海海戦で東洋艦隊に壊滅的打撃を与えた 翌年5月27日の日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させた日本海軍の代表的軍艦 全長122m・幅23m・排水量15140t・速力18ノット  「三笠」・イギリスの「ヴィクトリー」及びアメリカの「コンスティチューション」は自国の独立を守るための重要な海戦において勇敢に戦い歴史的な勝利を収めたことから世界の三大記念艦といわれている ヴィクトリーはトラファルガー沖海戦においてネルソン提督率いるイギリス艦隊の旗艦としてフランス・スペイン連合艦隊を破りました コンスティチューションは米英戦争において強敵にひるむことなく勇敢に戦った 
上左 東郷平八郎元帥像 台座には『日本海海戦後言志 日の本乃 海にととろく かちときは 御陵威かしこむ 聲とこそしれ(日本の海に轟く勝鬨は天皇陛下のお耳にも届く)(署名・花押)の句が記されてる 左の石碑には【皇国興廃此一戦】と有名な檄文 中左 行進曲軍艦(~楽譜~)碑文 行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された 日本の勃興期における行進曲として親しまれ未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものだ 世界3大行進曲の一つとして音楽史を彩る稀有の名曲 アメリカ「星条旗よ永遠なれ」ドイツ「旧友」そして 「軍艦」  中右 戦艦大和型主砲砲弾  上右 三笠側面の大砲と下の鉄片はロシヤ巡洋艦バヤーン15センチ砲の盾 厚さ7.5cmの鉄に弾痕の穴が開いている
 
上左端 小栗忠順・栗本鋤雲の像 横須賀市深田95 中央公園 共に幕臣 の二人の功績は横須賀製鉄所の建設だ 多難な幕末期に一大英断を以て画策した  小栗忠順を盟友栗本鋤雲が砕身を以て手助けしこの大事業成功させた  一寒村で会った横須賀が製鉄所・造船所の創設により開港の端緒が開かれ横須賀市勢発展の礎となった 『幕府の運命には限りが有るが日本の運命は限りが無い』『一言で国を滅ぼす言葉はどうにかなろうの一言なり 幕府が滅亡したるはこの一言なり』の名言で有名 司馬遼太郎は小説「明治という国家」の中で小栗を「明治の父」と書いている 島崎藤村は児童向け本「栗本先生」の中で「岩瀬肥後守忠震・小栗上野介忠順・栗本鋤雲の3人を徳川の世の末の後始末をよくした人物としてよく覚えていて欲しい』と書いている 中左 横須賀風物百選 永嶋家長屋門赤門 横須賀市1   門を建てた永嶋家は三浦氏の子孫と伝えられ戦国時代小田原北条氏の支配下にあって浜代官を務めさらに江戸時代には三浦郡の総名主にもなっていた  永嶋家道標2本 文久2年建立  左 横須賀・金沢道 久郷村之内大田津 右 大津・浦賀道 と彫られている 島崎藤村小説夜明け前の中で島崎家と赤門の永嶋家とは親戚である と書いている 永嶋家三代目正義の弟正胤が島崎を名乗り島崎家の祖となった 
 上左 横須賀風物百選 永嶋家の長屋門黒門  横須賀市佐野町4-9-8 赤門の永嶋家同様三浦氏の末裔 永嶋家の祖先は三浦義明の5男 永嶋出雲守義正が初代 以後現在に至るまで凡そ700年間現在の地に居住している 建物建築年代は江戸末期で大正時代に藁葺きから瓦葺きに改修された  上中 信楽寺 横須賀市大津町3-73 龍馬の死後龍子の生活は波瀾万丈で流浪の生活が続いたようだが確かなのは明治8年7月2日三浦郡十島村深田222(現米が浜通り)の西村松兵衛と再婚西村ツルとして入籍した 明治39年1月15日没 当時の住職新原了雄師によって当寺に埋葬  上右 横浜風物百選 坂本龍馬の妻の墓 墓碑には夫の西村松兵衛の妻の名ではなく『贈正四位坂本龍馬之妻龍子之墓』と刻まれている。 
上左端 走り水神社 横須賀市走水2-12-5 あわれ音橘姫命 身を海中に投じ 日本武尊を渡らせ給う 景行天皇の御代 東征中の息子日本武尊は足柄峠を越え相模国に入って古代東海道は鎌倉を経て走り水にいたりここから海路をたどり上総国へ通じていた 走り水はその縁の地である 音橘姫命を偲び村人の敬慕に謝し下賜された冠を村人は石棺に納めその上に社殿を建立して尊の命を祀ったのに始る 走り水神社栞より 中左 武尊と橘媛命の愛の御神徳を崇める弟橘姫の碑 は皇子の御為よろこびて命をぞ此の浦に身を捧げなむ はようつとめ果たし大君の御心安にじさせ給え 日本武尊 弟橘姫よ汝の願い心し吾が胸に残りなむ 永久に安かれとただおろがまむ と彫られている 中右 針と衣類等に感謝 針の碑  草枕  旅の丸寝の 紐絶えば 吾が手をつけろ これの針持し 万葉集巻20-4420  上右端 航海安全の碑の船の舵 救命艇の大舵でつくられ表面に弟橘姫のレリーフが張られている 航海の安全を祈念する 遠つ世に 弟橘姫は 鎮ませる この海原よ やすらけくこそ 発起人一同 の歌あり
上左 弟橘媛命の記念碑(日本武尊・弟橘媛命の御遺蹟を偲奉りて) さねさし さがむのおぬに もゆるひの ほのかにたちて とひしきみはも  裏面には 『嗚呼此は弟橘媛命いまわの御歌なり・・・・御身を犠牲として尊の御命の全からしめ奉りし其のいまわの御歌なり 勲一等竹田宮昌子内親王御染筆(明治天皇第六皇女)』 とあり伯爵東郷平八郎・伯爵乃木希典他5人の海軍軍人が発起人である 3m超の巨大な石碑 上中 浦賀水道と走水港 日本武尊滞在の地 御所が崎 横須賀市走水2-4 地元の伝承に寄れば尊の命は東征の折り自ら上総へ舟で渡ろうとしたとき海が荒れて渡れずこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所が崎(旗山崎台場)旗と呼ばれる 弟橘姫は荒ぶる海の神を鎮めにとしてこの荒海に入水した所 日本武尊が房総へ船出した地 右端の森が御殿が崎 上右 横浜市指定市民文化資産観音埼灯台 横須賀市鴨居4-1187 江戸末期の慶応2年幕府は米英仏蘭4カ国と改税約定を締結 その11条に灯台設置に相模国三浦郡三崎と観音崎が義務づけられた 明治2年1月1日日本最初の洋式灯台として点灯式が行われた 霧いかに 深くとも嵐 強くとも 高浜虚子 現在立ち入り禁止
上左 破崎展望台デッキからの走り水 横須賀市走水1丁目 地平線は横須賀市の町並み この日も風が強く白い波頭が立っていた 上中 駆逐艦村雨の碑 横須賀市大滝町1-9 駆逐艦村雨は太平洋戦争中の昭和18年3月5日の深夜敵艦の集中砲火を受けソロモン群島にて艦と共に乗組員119名の方々が南の海に散華された 海に面した駆逐艦村雨の碑の碑文-駆逐艦村雨大東亜戦争に於いて純粋に日本のために青春を捧げて戦歿した戦友を偲び祖国愛と平和への願いをこめてこの慰霊碑を建立する 昭和五十七年三月五日 村雨会会長 鹿山譽 とある 上右 東叶神社 浦賀市東浦和2-21-25 叶神社の縁起には養和元年(1181)に京都の高雄山神護寺の僧・文覚が石清水八幡をこの地に勧請し文治2年(1186)に源頼朝が源氏再興の願いが叶えられたので叶明神と改めたとされている 社務所の裏に井戸があり幕末に遣米使節の護衛艦となった咸臨丸の艦長として太平洋横断を成し遂げた勝海舟が航海前にこの井戸で水垢離をした後山頂で断食したと伝える
上左端 碑 文 日西墨比貿易港之碑Monument of Trade between Spain・Mexico・Manila via Uraga  東叶神社前 慶長3年(1598)徳川家康はスペイン(西)領メキシコ(墨)から新製錬技術を導入するためスペイン領マニラ(比)からメキシコのアカプリコ港へ向かうスペイン商船(ガレオン船)を浦賀湊に寄港させるよう交渉した  そのため、慶長5年に上陸した英人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を顧問とし江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と浦賀邸を与えた。三浦按針はマニラにも渡海し浦賀貿易再開のために尽力した 江戸・浦賀・静岡・伏見・大坂にはフランシスコ会修道院が創設され浦賀洲崎にはスペイン人を保護する高札が立てられた この浦賀貿易を管轄していたのが船奉行向井将監忠勝である  浦賀湊には前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビペロ・イ・アベルサやメキシコ国王の使節セバスチャン・ビスカイノが訪れ三浦按針建造のブエナ・ベントゥーラ号はロドリゴの帰国のために提供され浦賀を出帆し幕府船として初めて太平洋航路横断を果たした 伊達政宗の遣欧船サン・ファン・バウティスタ号もスペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せ入港している 三浦按針の母国との通商成立は来日から14年目でありその3ヶ月後の慶長18年12月全国にバテレン追放令が公布された 元和2年(1616)貿易港は長崎・平戸に限定され三浦按針が平戸への移住を余儀なくされるまで浦賀は長崎と並ぶ東国唯一の国際貿易港として重要な役割を果した 2019年4月吉日 中左 浦賀旅館の始まり 幕府御用徳田屋旅館跡)  浦賀の渡しのそばにあり右の碑には佐久間象山・吉田松陰相会う処 とある 松平定信・安藤広重・桂小五郎等も宿泊の地  中右 浦賀渡船場浦賀の渡し この航路は浦賀海道と呼ばれ横須賀市市道2037号となっている  上右端 為朝神社 浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で名のとおり源為朝を祀る 寛政12年(1800)浜町の漁民が海に漂流していた木像を引き上げ地蔵堂に安置し祈願をするとその功が多く鎮西八郎為朝の像であったという 創建は文政期(1820年代)で航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めている 源為朝は源頼朝の父の弟にあたり強弓で知られ後世に疱瘡除の神となる 
上左 西叶神社 西浦賀の鎮守 横須賀市浦賀町1-30 西叶神社と書いたが本来は叶神社が正式名称 しかし東浦賀にも叶神社があり区別のため西叶神社と呼んでいる 縁起によれば「平家物語」に登場する文覚上人が源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行しもし自分の大きな願いが叶えられるならよい土地を選んで神社をたてることを誓った 養和元年(1181)この願いが叶い神社を建てる場所を探した結果頼朝ゆかりの千葉・鹿野山の対岸である西浦賀の地が選ばれここに石清水八幡宮を勧請しました この場所は現在の浦賀丘3丁目にあり文覚畑と呼ばれています 文治2年(1186)壇の浦の戦いで平家が破れ源氏の世になると大きな願いが叶ったことにより『叶明神』の称号が与えられた とある 上中 横須賀港  上右 浦賀港引き揚げ記念の碑 浦賀港は第二次世界大戦後外地からの引揚者を受け入れた引揚指定港となり56万人もの引揚者を受け入れた 
 上 愛宕山からの浦賀港 愛宕山公園は本市で一番古い公園 横須賀市西浦賀1-9-3 上中 与謝野 寛・晶子の歌碑(同公園) 黒船を 怖れし世など なきごとし 浦賀に見るは すべて黒船  寛 春寒し 造船所こそ 悲しけれ 浦賀の町に 黒き鞘懸く  晶子 昭和10年(1935)3月3日与謝野寛・晶子夫妻が同人たちと観音崎、浦賀、久里浜を吟行した折に詠んだ歌 上右 中島三郎助招魂碑(同公園) 中島三郎助は浦賀奉行所の与力 ペリーが浦賀に来航した際に黒船に乗り込み交渉にあたった人物 また我が国最初の洋式軍艦鳳凰丸を完成させ幕府海軍の近代化に尽力した  明治維新後新政府に対抗して榎本武揚らとともに函館戦争に参戦、五稜郭の戦いで長男恒太郎・次男英次郎と共に千代が岡で戦死 3人の墓は本市東浦賀町東林寺 
上左端 咸臨丸出港記念碑  愛宕山公園 日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられた 碑の裏には艦長の勝海舟をはじめ福沢諭吉・ジョン万次郎などの乗組員の名が刻まれている この碑は咸臨丸がわが国の軍艦として初めて太平洋を横断した壮挙をたたえ昭和35(1960)年に日米修好通商100年記念行事として建立された 太平洋を隔てたサンフランシスコ市には咸臨丸入港の碑が建立されている 中左 ペリー記念館 中右 浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄(うじよし)胸像 ペリーより国書を受け取った人物 上右端 ペリー提督胸像 
上左 碑正面  米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑 大勲位侯爵伊藤博文書  上中 ペリー提督上陸の地 上右 碑裏面 「嘉永六年六月九日上陸明治卅四年七月十四日建之
THIS MONUMENT  COMMEMORATES The First Arrival OF  COMMODORE PERRY AMBASSADOR FROM THE  UNITED STATES OF AMERICA  WHO LANDED AT THIS PLACE  JULY 14,1853.  ERECTED JULY 14.1901.  BY AMERICA'S FRIEND ASSOCIATION」
  横須賀市久里浜7-14
上左端 若山牧水歌碑  長沢海岸 横須賀市長沢2丁目  しら鳥は 悲しからずや そらの青 海のあおにも そまらずただよふ 中左 背面の喜志子夫人の歌 うちけぶり 鋸山も 浮かび来と 今日のみちしほ ふくらみ寄する 又隣の歌碑に若山牧水の 海越えて  鋸山は  かすめども  此処の長浜  浪立ちやまず もある 中右 衣笠城 衣笠合戦の地 横須賀市衣笠町29-1162) 治承4年(1180)8月頼朝旗揚げに呼応してここ衣笠城で起こった秩父氏(平家方)三浦氏(源氏方)による戦い 平安時代末期の内乱である治承・寿永の乱の合戦の一つ 「三浦一族」は桓武平氏の子孫「村岡為通」が源頼義に従い前九年合戦に参戦しその恩賞として与えられた所領の地名を名乗り「三浦為通」を名乗ったのが始まり  為通は所領の中心衣笠に城を築いた 上右端 衣笠城祉碑
上 満昌寺 建久5年(1194)源頼朝が三浦義明追善供養のために創建 横須賀市大矢部1-5-10 上中 伝・三浦義明墓所 義明は後三年の役で義家に従い勇名をはせた為継の孫 頼朝が挙兵した1180年(治承4年)源氏側についたが平家側の畠山重忠と戦い衣笠城で戦死 89歳だった その後の三浦氏繁栄の基礎を作る 上右 同境内 源頼朝お手植えのツツジ    
 上左2つ 清雲寺 三浦氏三代の墓  横須賀市大矢部5-9 清雲寺は1104年(長治元年)三浦義継が父為継の供養のため建立した寺  本堂背後の墓地には為継の五輪塔を中心に為通・義継の五輪塔が並べられている 為通は三浦氏の祖で1063年(康平6年)源頼義より三浦の地を与えられ三浦を名乗り衣笠城を築いた  二代為継は後三年の役で源義家に従った  鎌倉権五郎景政が右目に敵の矢を受けた際為継が景政の顔に足をかけて矢を抜こうとすると景政が武士の面目を汚したとして為継を殺そうとしたという伝説が残る  三代義継は源義朝に仕え大庭御厨の乱入事件では子の三浦大介義明とともに義朝に荷担した 上右 満願寺 佐原十郎義蓮の墓 横須賀市岩戸1-4-9  岩戸山満願寺は佐原十郎義連の創建 正面に中島三郎助筆の松尾芭蕉句碑がある 本尊の木造観音菩薩像や地蔵菩薩像は高さ200cm以上あり鎌倉時代初期に造立で国重要文化財 
 上左端 鹿穴山来復寺 三浦市南下浦町1859  鎌倉時代の武将和田義盛菩提寺 本山免許の資格を持つ三浦半島唯一の名古刹 1697(元禄10年)建立 中左 伝・三浦義村公の墓 三浦市南下浦町金田2014 中右 大正年間建立の三浦義村の墓 供養墓の横に「三浦義村公墓碑改修協賛会」と刻された石板塔  三浦忠通・三浦為通・三浦為継・三浦義明・三浦義澄・三浦義村・三浦泰村・三浦光村・杉本義宗・岡崎義実・佐原義連の一族の名あり 平安末期から戦国期までの凡そ450年の間関東で勢威を振るった三浦一族の中で最も隆盛を極めたのが義村公  上右端 見桃寺  北原白秋の第1号歌碑  三浦市白石町19-2 寂しさに 秋成が書 読みさして 庭に出でたり 白菊の花 向井将監一族の石塔群あり
上左 見桃寺 建久5年(1194)閏8月1日源頼朝は白浪と青山で極めて優れた景色を有する三崎の津に山荘を建てた その山荘は三つで椿の御所(大椿寺)・桜の御所(本瑞寺)・桃の御所(見桃寺)と呼ばれていた 上中 城ヶ島から房総半島を望む 上右 安房崎灯台 城ヶ島公園から海へ下りると海中の岩場にある高さ11mの小さな灯台だったが一週間前に現在地に移動 
 北原白秋歌碑と城ヶ島大橋 昭和35年4月  三浦市三崎町374 雨はふるふる城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる 対岸が三崎港  上中 歌碑の背面 昭和24年7月4日建之 富士山が見える   上右 城ヶ島灯台
夕されば 涙こぼるる城ヶ島 人間ひとり 居らざりにけり         城ヶ島の 白百合の花 大きければ 仰ぎてぞあらむ あそびの舟は  雲母集
 
    スカジャン発祥の地横須賀               皇国興廃此一戦の碑                      三浦半島三崎港のまぐろ丼                  
    
上左 新井城(右) 海蔵寺開基 武勇之本地跡 三浦陸奥守義同道寸公 三浦荒次郎義意公(左)  三浦市三崎町1024 鎌倉幕府の創設に貢献をした三浦氏は新井城から近い和田城が本拠 しかし三浦一族の和田義盛が和田合戦で執権・北条義時に敗れるなどして三浦氏は衰退し1247年宝治合戦にて執権・北条時頼に三浦泰村らが敗れるなど攻防を繰り返した 永正13年(1516)ここ新井城を最後の居城として立てこもった三浦一族は北条早雲の大群を相手に3年にわたり奮戦したが主な者260人合計500余人が自害して滅亡した  上右 一族最後の当主三浦道寸義同の墓 三浦市三崎町1095  討つ者も 討たれる者も かわらけよ 砕けて後は もとの土くれ  三浦道寸義同辞世の歌 
上 油壺 油壺は三浦一族の哀話を秘めたる地 しんととろりとして深し しんとろりとそこから光り 北原白秋 湾の奥に至るまでに地形的に何段階か折れ曲がっているため外海のうねりが到達せずまた周囲の岬の高さとそこに生い茂る林が風を防いでくれているため水面が穏やかに保たれる湾で天然の良港 上中左  外海は 荒れいて 月の油壺  田辺大愚 この句碑の辺りは油壺湾を一望できるビュースポット 句の意味は油壺湾の形が深く入り組んでいるため外洋の荒波が入りにくく静かな海ということだそうだ かながわ景勝50選の碑 
 上左端 郵便の父前嶋密の浄土寺  横須賀市芦名2丁目30-5 和田義盛建立 国重文の阿弥陀三尊像・不動明王像・毘沙門天像は運慶作 中左 前島密の墓 中右 前島密像のある現役のポスト 上右端 正面は葉山御用邸 三浦市から三浦郡葉山町への途中に僅かに横須賀市になっている所にある
上左 マルチーノ公使・ベルツ博士記念碑 ベルツ博士は葉山が黒潮の影響で冬は暖かく夏は涼しい温暖の地で風光明媚であることに注目し「葉山」が保養の地として最適であると皇室に進言 明治27年に葉山御用邸が造営された 上中 森戸神社  三浦郡葉山町堀内1025 今から約850年前の永暦元年(1160年)平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝公は 三嶋明神(現在の静岡県・三嶋大社)を深く信仰し源氏の再興を祈願した  治承4年(1180年)そのご加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝公は鎌倉に拠るとすぐさま信仰する三嶋明神の御分霊を鎌倉に近いこの葉山の聖地に歓請した 上右 石原裕次郎記念碑 境内には湘南で青春を過ごしこの地をこよなく愛した俳優裕次郎の記念碑 石碑には裕次郎のブロンズ像 石原慎太郎氏自筆の詩が刻まれてる 夢はとおく 白い帆にのって 消えていく 消えていく 水のかなたに 太陽の季節に 実る狂った果実たちの先達 石原裕次郎を 偲んで 平成元年7月17日 石原慎太郎 と彫られている 画面中央には富士山 左端に小さく見える裕次郎灯台 東北では見れない絶景だ 
 森戸神社境内にある石碑 上左端 堀口大學 花はいろ 人はこころ  中左 明治天皇制御 昭憲皇太后お歌  明治天皇海辺雪歌碑 波のうへに 富士のね見えて くれ竹の 葉山の浦の 雪はれにけり  照憲皇太后里神楽歌碑 くれ竹の 葉山の宮に きこゆるや 森戸あたりの かぐらなるらむ  中右 源頼朝公別墅跡碑 源頼朝公がこの地に別邸を建て笠懸を催したり三代将軍 源実朝や四代将軍 藤原頼経なども来遊した記録が吾妻鏡にある 上右端 高橋是清句碑 堪忍の 股よりのぞけ 富士の山  高橋是清
 上左端 葉山海と裕次郎灯台 上中左 葉山の海とヨットと富士山 上中右 太陽の季節ここに始る碑と逗子の海 上右端 裕次郎碑と富士山と葉山の海
 左端 国木田独歩歌碑 逗子市桜山9丁目 逗子の砂やま草かれて 夕日さびしく残るなり  沖の片帆の影ながく 小坪の浦はほどちかし 明治28年(1895年)11月蘇峰の媒酌で佐々城信子と結婚し逗子で暮らし始め最初の結婚生活を送った地が逗子で独歩ゆかりの地 その後離婚している 上中左 徳冨蘆花 国木田独歩縁の地 柳屋跡の碑(右碑) 逗子市桜山8  かつて国木田独歩夫妻が1895(明治28)年11月から4ヶ月 その1年後から徳富蘆花夫妻が4年間それぞれ間借りして数々の作品を執筆した柳屋が建っていた場所 左碑は徳冨蘆花の狂歌の碑 青いくも白い雲同じ雲でもわしや白雲よわかまゝ気まゝに空をとぶ 田越川沿いの旅館「柳屋」跡地に建てられている   蘆花の作  自然と人生・不如帰 が生れた場所 上中右 六代御前墓地伝説の碑 逗子市桜山8-2-1-7 平維盛の嫡男で平家滅亡の時に捉えられ処刑されるところ文覚上人によって助けられたが頼朝が死ぬと再び捉えられ田越川にて斬首された 上右端 三浦平九郎胤義遺孤の碑 逗子市逗子5-11 承久3年(1221)承久の乱で三浦義村は幕府方に弟三浦胤義は後鳥羽上皇方についた 上皇方が敗れ胤義は死んだが残された11才の子以下4人の子は田越川にて斬られた
左端 逗子開成学園 逗子市新宿2丁目5?1 神奈川県下で最古の私立男子中高一貫校 明治43年1月23日 皆さんご存知の七里ヶ浜に於て学園の生徒12名が遭難 上中左 真白き富士の嶺慰霊の碑と12名の氏名  真白き富士の嶺緑の江の島 仰ぎ見るも今は涙 帰らぬ十二の雄々しきみ魂に 捧げ奉つる胸と心 作詞 三角絹子 作曲 ガードン 歌は6番まである 上中右 さくら貝の碑 逗子市新宿5-5-5 作者土屋花情は逗子の浜辺から詩想を得て創作しました またラジオ歌謡として愛唱された うるわしき桜貝ひとつ 去りゆける君に捧げん この貝は去年の浜辺に われひとり拾いし貝よ 賠償千恵子が有名 この歌碑は上左端の蘆花之故地・浪子不動園地内にあります 
上左 白滝山高養寺  高養寺は元々は浪切不動と呼ばれ漁師達の厚い信仰を得ていた それが明治の文豪徳冨蘆花が高養寺を舞台とする小説不如帰を発表しそのヒロインの名が浪子であったためにいつの頃からか高養寺も浪子不動と呼ばれるようになった 又新宿海岸に面した高台に建つ高養寺の本堂は葉山の真言宗に属していた慶増院という寺院の建物を昭和28年(1953年)ここに移築したもので時の首相高橋是清と犬養毅の援助を受けて建立したので寺名も後援者のそれぞれ一字をとり高養寺 徳冨蘆花小説「不如帰(ほととぎす)」の舞台で主人公の片岡浪子にあやかり浪子不動と呼ばれるようになった 上中・上右 逗子新宿海岸の海中にある不如帰の碑 夫武雄と愛し合いながらも病(肺病)のために離縁させられた妻浪子の物語  浪子の『 あァァァ~人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ』のフレーズは有名だ 昔肺病は浪子病と呼ばれていた.
上左端 高養寺から海中の浪子石碑  中左 逗子の地名発祥の寺 東雲山逗子大姉延命寺  逗子市逗子3-1 弘法大師(空海)が下野国二荒山(現在の栃木県)に行脚の折この地に立寄り当山の地蔵尊を安置する厨子を設けた 以来住民尊信の的となりいつしかこの地一帯を往時は厨子と呼び近時より逗子という地名の起源となった 厨子は御本尊様やご位牌を安置する仏具  中右・右端  岩殿寺 逗子市久木5-7-11 源頼朝が挙兵にあたり武運を祈願し治世の間には毎月政子共々参詣したと伝える 外に正歴元年花山法皇 建久3年後白河法皇が行幸 承元3年には実朝将軍 天正9年徳川家康が参詣・ 作家泉鏡花は胃腸病療養のため逗子市に数年滞在しその間にここ岩殿寺を舞台にした小説春昼を著わしている  鏡花の池がある
 
 上左端 岩殿寺報恩供養碑 花山法皇・後白河法皇の御行幸とその年月日等や源頼朝・徳川家康御参詣とその年月日等やその他些細な文字が彫られている 上中 泉鏡花文学碑 兎の歌碑 逗子大崎公園 逗子市小坪4-25-5  酉年の鏡花の向い干支は兎 江戸時代より向かい干支の物を集めると幸運が訪れるとされ鏡花は兎を収集していた 秋の雲 尾上のすすき 見ゆるなり 上右端 大崎公園から湘南方面の眺め 中央が江の島 
鎌倉武士の栄枯盛衰の典型的な例は和田一族である 一族を率いた和田義盛は鎌倉幕府創建の 功労者で半島の豪勇三浦大介義明の孫に生まれ三浦市初声町和田を領したことから和田氏を名乗る 頼朝挙兵に参加したとき義盛は34才 以後大いに活躍鎌倉建府の大立物でした その功によって 最高職の侍所の別当に任ぜられ頼朝、頼家、実朝の三代にわたって忠誠をつくした 源氏に替って北条氏の時代になると対立するようになり北条義時の挑発と策謀で同志と信じていた同族の三浦義村の北条方への寝返りのため建保元年(1213)5月4日鎌 倉由比ヶ浜で北条氏のため滅された
左 和田義盛の旧里碑 三浦市初声町和田 八雲神社境内