三浦が崎(三浦半島)

芝付きの 美宇良崎(みうらざき)なる ねつこ草 相見ずあらば 我恋ひめやも   万葉集巻14ー3508
三浦が崎に生えている芝付きの根っこ草のようなあの娘にもし逢うことがなかっtならこんなに恋い焦がれることもなかったろうに (根っこ草=おきな草)

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも       古事記・日本書紀 弟橘姫
 弟橘姫が三浦半島走り水で海中に身を投ずる際に詠んだ歌 
 相模の小野の荒野の燃えさかる火の中で御身に危険が迫っている中でも私のことを気遣ってくれ貴方様よ
弟橘比売は 倭健命(日本武尊)の思い出を胸に幾重もの畳を波の上に引いて此処三浦半島走り水の海に入るのである 七日後 比売の櫛が対岸に流れ着いたので御陵を造って櫛を収めた
「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した倭健命が神の怒りをかったと記され同様に妾の弟橘媛の犠牲で難を免れたと記されるが和歌はない(ウイキペディア)
上左 横浜市有形文化財伊藤博文金沢別邸 横浜市金沢区野島町24 野島公園の松林に囲まれた茅葺きの木造家屋 純和風建築2100坪の広大な敷地に建坪110坪 前面に乙舳の海を一望できる ここには大正天皇や裕仁親王(昭和天皇)・韓国皇太子はじめ多数の政府高官が招かれた 上中・右 明治憲法起草地記念碑 横須賀市夏島2 伊藤博文らが明治憲法の起草をした夏島の別荘跡地に大正15年(1926)11月草案に加わった伊東巳代治・金子堅太郎らが発起人となり建立された 碑の基石は明治憲法全76条を示す76個の御影石からなり縦横22尺2寸1分1厘(約6.7m)の大きさは憲法発布の日明治22年(1889)2月11日を表している
横須賀市浦郷町5(貝山公園内)  上左 予科練誕生の地碑 海軍予科飛行練習生(別称海軍少年航空兵)の碑  昭和5年の第一期から昭和14年の第10期生が霞ヶ浦に移転するまでの訓練地  中 海軍甲種飛行予科練習生鎮魂の碑 戦局の悪化により大空の果て海原の底に散った甲飛の御霊は実に六千七百七十八柱にのぼる その中の一人は次の歌を残して散華した 『 血潮もて 茜と染むも 悔ゆるな 雲を墓標の 空の御盾は』  私達は国家危急の折救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念する とある  右 海軍航空発祥の地碑 大正5年(1916)3月に海軍航空隊令が発布され翌4年追浜に横須賀海軍航空隊が置かれた この時に飛行場を作るため海岸が埋め立てられ夏島は現在のように陸続きとなった
ウイリアムアダムス夫婦墳墓在於塚山絶頂
横須賀市西逸見町3-57  塚山公園内
国指定の史跡三浦按針夫妻の墳墓
右が按針の墓で左が妻の墓 三浦按針は本名をウィリアム・アダムズ  慶長5年(1600)台風に遭い生き残った乗員24名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着 徳川家康は三浦按針を高く評価し政治・外交顧問として重く用い江戸日本橋に屋敷をそしてこの地逸見村に250石の領地を与えて厚遇した 三浦の姓はこの三浦の地を領地としたことによる 按針の名は水先案内人を当時按針と称していたことによりる 家庭的にも恵まれ江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻としジョセフとスザンナの1男1女をもうけた 
上左 港が見える丘からの横須賀港 塚山公園    上右 海軍の碑  横須賀市汐入町1-1 ヴェルに-公園内  昭和20年の敗戦と共に80年に亘る歴史を閉じた海軍 終息50年の節目に当たる平成7年明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史並びに太平洋戦争で亡くなった多くの人々を偲び我が国の永遠の平和を希求するためこの記念碑を建立する趣旨が彫られている    
 
以下ベルニー公園内 左端 国威顕彰の碑 重巡洋艦高尾軍艦の艦橋を模した形の碑 昭和12年の海軍記念日に建立 戦後正面下部の碑板部分は剥ぎ取られた 多分八紘一宇の文字があったか? 中左 軍艦山城の碑 フィリピンで圧倒的多数のアメリカ艦隊との戦闘で沈没  乗員1600名余名が艦とともに運命を共にした 生存者はわずか10名だけとのこと 碑の裏には亡くなられた方の名前がぎっしり書かれている 中右 軍艦長門の碑 上段にありし日の長門のレリーフと下段に『聯合艦隊旗艦長門の姿をここに留めて昭和の激動の時代を偲ぶよすがとする』 の文字が刻まれている 右端 軍艦沖島の碑  昭和17年5月11日ソロモン群島ブガ島クイーンカロラ沖にて撃沈された日本最大の敷設艦  
以下ヴェルニー公園内 上左 開港石碑 江戸末期の幕臣小栗上野介とフランス人造船技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの功績を顕彰するため昭和28年に胸像とともに設置された 両名によって横須賀製鉄所(造船所)が建設され現在の横須賀発展の礎が築かれた  上中 左フランソワ・レオンス・ヴェルニー右小栗上野介忠順の胸像 上右 横須賀市指定市民文化資産 逸見波止場衛門 明治末期の建築 旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所で左右2棟あり左側は『逸見上陸場・右側は「軍港逸見門』と表示されてる
 
CEC搭載海上自衛隊最新鋭イージス艦 まや 令和2年3月19日完成引き渡しされた 正に横須賀ですね こんな間近に見れるとは
 上左 毎週金曜日は海軍カレー    中左 帝国海軍旗艦陸奥の主砲実物 全長18.8m・重量102t・口径41cm     中右 イージス艦2隻      上右 潜水
 横須賀市を象徴するどぶ板通りとプレート どぶ板通りとは横須賀市中心部にある全長300m程の通り・商店街  スカジャンの発祥地として有名  第二次大戦前この通りには道の中央にどぶ川が流れていたが人やクルマの通行の邪魔になるため海軍工廠より厚い鉄板を提供してもらいどぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれる
  
上左 歩道に埋め込まれたどぶ板通り スカジャン発祥の地プレート  上右 №16 作曲家ロック歌手宇崎竜童 №31 ドラム奏者ジョージ川口 他に №20横浜FC元サッカー選手奥寺康彦 №25ジャズ評論家本多俊夫 息子本多幸之はサックス奏者 №29ジャズドラマー日野元彦 兄日野皓正はトランペット奏者 №17作詞家エッセイスト阿木燿子 №10原信夫とシャープ&フラッツ ジャズトランペット奏者福原彰  №30ジャズシンガー阿川泰子など横須賀と縁が深いミュージシャンやスポーツ選手の手形レリーフがどぶ板通りには47枚ある
 
 日本遺産記念艦三笠 三笠公園 横須賀市稲岡町82-9 明治37年の日露開戦に於いて東郷大将率いる連合艦隊の旗艦 同年8月10日の黄海海戦で東洋艦隊に壊滅的打撃を与えた 翌年5月27日の日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させた日本海軍の代表的軍艦 全長122m・幅23m・排水量15140t・速力18ノット  「三笠」・イギリスの「ヴィクトリー」及びアメリカの「コンスティチューション」は自国の独立を守るための重要な海戦において勇敢に戦い歴史的な勝利を収めたことから世界の三大記念艦といわれている ヴィクトリーはトラファルガー沖海戦においてネルソン提督率いるイギリス艦隊の旗艦としてフランス・スペイン連合艦隊を破りました コンスティチューションは米英戦争において強敵にひるむことなく勇敢に戦った 
上左 東郷平八郎元帥像 台座には『日本海海戦後言志 日の本乃 海にととろく かちときは 御陵威かしこむ 聲とこそしれ(日本の海に轟く勝鬨は天皇陛下のお耳にも届く)(署名・花押)の句が記されてる 左の石碑には【皇国興廃此一戦】と有名な檄文 中左 行進曲軍艦(~楽譜~)碑文 行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された 日本の勃興期における行進曲として親しまれ未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものだ 世界3大行進曲の一つとして音楽史を彩る稀有の名曲 アメリカ「星条旗よ永遠なれ」ドイツ「旧友」そして 「軍艦」  中右 戦艦大和型主砲砲弾  上右 三笠側面の大砲と下の鉄片はロシヤ巡洋艦バヤーン15センチ砲の盾 厚さ7.5cmの鉄に弾痕の穴が開いている
 
上左端 小栗忠順・栗本鋤雲の像 横須賀市深田95 中央公園 共に幕臣 の二人の功績は横須賀製鉄所の建設だ 多難な幕末期に一大英断を以て画策した  小栗忠順を盟友栗本鋤雲が砕身を以て手助けしこの大事業成功させた  一寒村で会った横須賀が製鉄所・造船所の創設により開港の端緒が開かれ横須賀市勢発展の礎となった 『幕府の運命には限りが有るが日本の運命は限りが無い』『一言で国を滅ぼす言葉はどうにかなろうの一言なり 幕府が滅亡したるはこの一言なり』の名言で有名 司馬遼太郎は小説「明治という国家」の中で小栗を「明治の父」と書いている 島崎藤村は児童向け本「栗本先生」の中で「岩瀬肥後守忠震・小栗上野介忠順・栗本鋤雲の3人を徳川の世の末の後始末をよくした人物としてよく覚えていて欲しい』と書いている 中左 横須賀風物百選 永嶋家長屋門赤門 横須賀市1   門を建てた永嶋家は三浦氏の子孫と伝えられ戦国時代小田原北条氏の支配下にあって浜代官を務めさらに江戸時代には三浦郡の総名主にもなっていた  永嶋家道標2本 文久2年建立  左 横須賀・金沢道 久郷村之内大田津 右 大津・浦賀道 と彫られている 島崎藤村小説夜明け前の中で島崎家と赤門の永嶋家とは親戚である と書いている 永嶋家三代目正義の弟正胤が島崎を名乗り島崎家の祖となった 
 上左 横須賀風物百選 永嶋家の長屋門黒門  横須賀市佐野町4-9-8 赤門の永嶋家同様三浦氏の末裔 永嶋家の祖先は三浦義明の5男 永嶋出雲守義正が初代 以後現在に至るまで凡そ700年間現在の地に居住している 建物建築年代は江戸末期で大正時代に藁葺きから瓦葺きに改修された  上中 信楽寺 横須賀市大津町3-73 龍馬の死後龍子の生活は波瀾万丈で流浪の生活が続いたようだが確かなのは明治8年7月2日三浦郡十島村深田222(現米が浜通り)の西村松兵衛と再婚西村ツルとして入籍した 明治39年1月15日没 当時の住職新原了雄師によって当寺に埋葬  上右 横浜風物百選 坂本龍馬の妻の墓 墓碑には夫の西村松兵衛の妻の名ではなく『贈正四位坂本龍馬之妻龍子之墓』と刻まれている。 
上左端 走り水神社 横須賀市走水2-12-5 あわれ音橘姫命 身を海中に投じ 日本武尊を渡らせ給う 景行天皇の御代 東征中の息子日本武尊は足柄峠を越え相模国に入って古代東海道は鎌倉を経て走り水にいたりここから海路をたどり上総国へ通じていた 走り水はその縁の地である 音橘姫命を偲び村人の敬慕に謝し下賜された冠を村人は石棺に納めその上に社殿を建立して尊の命を祀ったのに始る 走り水神社栞より 中左 武尊と橘媛命の愛の御神徳を崇める弟橘姫の碑 は皇子の御為よろこびて命をぞ此の浦に身を捧げなむ はようつとめ果たし大君の御心安にじさせ給え 日本武尊 弟橘姫よ汝の願い心し吾が胸に残りなむ 永久に安かれとただおろがまむ と彫られている 中右 針と衣類等に感謝 針の碑  草枕  旅の丸寝の 紐絶えば 吾が手をつけろ これの針持し 万葉集巻20-4420  上右端 航海安全の碑の船の舵 救命艇の大舵でつくられ表面に弟橘姫のレリーフが張られている 航海の安全を祈念する 遠つ世に 弟橘姫は 鎮ませる この海原よ やすらけくこそ 発起人一同 の歌あり
上左 弟橘媛命の記念碑(日本武尊・弟橘媛命の御遺蹟を偲奉りて) さねさし さがむのおぬに もゆるひの ほのかにたちて とひしきみはも  裏面には 『嗚呼此は弟橘媛命いまわの御歌なり・・・・御身を犠牲として尊の御命の全からしめ奉りし其のいまわの御歌なり 勲一等竹田宮昌子内親王御染筆(明治天皇第六皇女)』 とあり伯爵東郷平八郎・伯爵乃木希典他5人の海軍軍人が発起人である 3m超の巨大な石碑 上中 浦賀水道と走水港 日本武尊滞在の地 御所が崎 横須賀市走水2-4 地元の伝承に寄れば尊の命は東征の折り自ら上総へ舟で渡ろうとしたとき海が荒れて渡れずこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所が崎(旗山崎台場)旗と呼ばれる 弟橘姫は荒ぶる海の神を鎮めにとしてこの荒海に入水した所 日本武尊が房総へ船出した地 右端の森が御殿が崎 上右 横浜市指定市民文化資産観音埼灯台 横須賀市鴨居4-1187 江戸末期の慶応2年幕府は米英仏蘭4カ国と改税約定を締結 その11条に灯台設置に相模国三浦郡三崎と観音崎が義務づけられた 明治2年1月1日日本最初の洋式灯台として点灯式が行われた 霧いかに 深くとも嵐 強くとも 高浜虚子 現在立ち入り禁止
上左 破崎展望台デッキからの走り水 横須賀市走水1丁目 地平線は横須賀市の町並み この日も風が強く白い波頭が立っていた 上中 駆逐艦村雨の碑 横須賀市大滝町1-9 駆逐艦村雨は太平洋戦争中の昭和18年3月5日の深夜敵艦の集中砲火を受けソロモン群島にて艦と共に乗組員119名の方々が南の海に散華された 海に面した駆逐艦村雨の碑の碑文-駆逐艦村雨大東亜戦争に於いて純粋に日本のために青春を捧げて戦歿した戦友を偲び祖国愛と平和への願いをこめてこの慰霊碑を建立する 昭和五十七年三月五日 村雨会会長 鹿山譽 とある 上右 東叶神社 浦賀市東浦和2-21-25 叶神社の縁起には養和元年(1181)に京都の高雄山神護寺の僧・文覚が石清水八幡をこの地に勧請し文治2年(1186)に源頼朝が源氏再興の願いが叶えられたので叶明神と改めたとされている 社務所の裏に井戸があり幕末に遣米使節の護衛艦となった咸臨丸の艦長として太平洋横断を成し遂げた勝海舟が航海前にこの井戸で水垢離をした後山頂で断食したと伝える
上左端 碑 文 日西墨比貿易港之碑Monument of Trade between Spain・Mexico・Manila via Uraga  東叶神社前 慶長3年(1598)徳川家康はスペイン(西)領メキシコ(墨)から新製錬技術を導入するためスペイン領マニラ(比)からメキシコのアカプリコ港へ向かうスペイン商船(ガレオン船)を浦賀湊に寄港させるよう交渉した  そのため、慶長5年に上陸した英人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を顧問とし江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と浦賀邸を与えた。三浦按針はマニラにも渡海し浦賀貿易再開のために尽力した 江戸・浦賀・静岡・伏見・大坂にはフランシスコ会修道院が創設され浦賀洲崎にはスペイン人を保護する高札が立てられた この浦賀貿易を管轄していたのが船奉行向井将監忠勝である  浦賀湊には前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビペロ・イ・アベルサやメキシコ国王の使節セバスチャン・ビスカイノが訪れ三浦按針建造のブエナ・ベントゥーラ号はロドリゴの帰国のために提供され浦賀を出帆し幕府船として初めて太平洋航路横断を果たした 伊達政宗の遣欧船サン・ファン・バウティスタ号もスペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せ入港している 三浦按針の母国との通商成立は来日から14年目でありその3ヶ月後の慶長18年12月全国にバテレン追放令が公布された 元和2年(1616)貿易港は長崎・平戸に限定され三浦按針が平戸への移住を余儀なくされるまで浦賀は長崎と並ぶ東国唯一の国際貿易港として重要な役割を果した 2019年4月吉日 中左 浦賀旅館の始まり 幕府御用徳田屋旅館跡)  浦賀の渡しのそばにあり右の碑には佐久間象山・吉田松陰相会う処 とある 松平定信・安藤広重・桂小五郎等も宿泊の地  中右 浦賀渡船場浦賀の渡し この航路は浦賀海道と呼ばれ横須賀市市道2037号となっている  上右端 為朝神社 浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で名のとおり源為朝を祀る 寛政12年(1800)浜町の漁民が海に漂流していた木像を引き上げ地蔵堂に安置し祈願をするとその功が多く鎮西八郎為朝の像であったという 創建は文政期(1820年代)で航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めている 源為朝は源頼朝の父の弟にあたり強弓で知られ後世に疱瘡除の神となる