三芳野の里
昔 男武蔵の国までまどひありきけり。さて その国に在る女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なむあてなる人に心つけたりける。父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡みよし野の里なりける
三芳野の 田面(たのむ)の雁も ひたぶるに 君が方にぞ よると鳴くなる         伊勢物語 在原業平
むこがね返し
わが方に よると鳴くなる 三芳野の たのむの雁を いつか忘れむ          伊勢物語 在原業平
となむ。人の国にても、猶かかることなむやまざりける。  以上は講談社学術文庫発行の伊勢物語の記述を記載した 下は川越市郭町2-25-11にある県指定文化財三芳野神社である 三芳野の里は不明であるが一節には入間の郡みよし野の里は川越の旧地名にあたるという 古代路東山道は群馬県栃木県を通るが東海道から東山道への道は東山道武蔵路が埼玉県を通っていたので在原業平もさもありなんでしょう 但し伊勢物語はフィクションなので彼本人は東下りはしていない
   
    
 この神社平安初期に創建されたというが定かではない ただ川越城築城以前からこの地にあり太田道真・道灌が親子の川越城築城(1457年)により天神曲輪に位置することになってしまった つまり庶民が自由にお参りしていた神社が突然警護の厳しい城内に存することなりお城の天神様となってしまった 実はこの事が皆さんご存知の『とうりゃんせ』というわらべ唄の発祥の地となったのです(上右) 『♪とうりゃんせ とうりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ どうか通してくだしゃんせ 御用の無い者通しゃせぬ この子の7つのお祝いに お札を納めに参ります 行きはよいよい帰りは怖い 怖いながらもとうりゃんせとうちゃんせ とうりゃんせ♪』 この行きはよいよい帰りは怖いには諸説ある お参りには門番は容易に城内に入れてくれるが機密事項多い城から出るには厳しい検閲があった それが怖いぐらいに厳重だったからとの説が有力のようだ この上の神社参道が天神様の細道なのです
        
上左  業平の歌碑   上右 初雁の杉の碑 渡り鳥の初雁が毎年必ずこの杉の木の上で3度鳴いて飛び去ると言う川越城七不思議の一つ
  
上左 川越市役所前に立つ太田道灌像 彼は江戸城の築城で有名だ 現在の皇居内の富士見櫓のある所に精勝軒という櫓を建てて住んでいて次の歌を詠んだ 
わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る 
この歌からも当時東京湾は松原が延々と続いて江戸城の近くまで来ていたことが分かる 江戸城櫓からは富士山もまじかに見え絶景だった 又彼の像は狩りの姿である ある時狩りの途中で雨が降ってきたので近くにいた娘に『蓑を貸してくれ』と尋ねたが娘は貧しくて『蓑の一つも持ち合わせていない』ことを下の歌で返したという  

 
七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲し
この歌の意図を知り道灌は自分の無知を恥じ一層和歌の道に励んだ 他に 年ふれど 未だ知らざりし 都鳥 すみだ河原に 宿はあれども 等多数の歌を詠んでいる 上中 喜多院多宝塔 川越と言えば喜多院 創建は天長7年(830)慈覚大師によるが3代将軍徳川家光や乳母の春日局関連で有名 正式には星野山無量寿院喜多院 家康に信任厚い天界僧正が住職となってからは熱い庇護を受け江戸城から絵画や宝物・國重文の家光誕生の間(客殿)國重文春日局の化粧の間が移築され山門・鐘楼・等の重要文化財が多数ある
   
 上左 国重文喜多院春日局書院と庭                   上中 國重文喜多院山門                上右 国重文喜多院鐘楼
    
 上左 川越のシンボル時の鐘 凡そ400年前時の藩主酒井忠勝により建てられ江戸時代から時を告げてきた 度重なる大火によって焼失し現在のは4代目 環境省日本の音風景100選 高さ16m 今も午前6時・正午・午後3時と6時に鐘が鳴る  上右 小江戸川越蔵の町一番街 鬼瓦に黒漆喰の壁と分厚い観音開きの扉 江戸時代にタイムスリップの街並み 度重なる大火から川越藩主松平信綱は防火の町割りをすすめて瓦葺と土蔵造り漆喰壁を奨励した 現在も30棟以上が現存し国重要文化財も多数ある 更に有名スポットとして石畳に20軒ほどがひしめく菓子屋横丁がある 美しい日本の歴史的風土100選   
       
上左 川越氷川神社 川越市宮下町2-11-3 1500年前の古墳時代欽明天皇の時代の創建の伝承を持つ古社 本殿細密彫刻は県重文 太田道灌も参詣して 老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪 と詠む 川越氷川祭りの例大祭は重要無形民族文化財  上右 大鳥居 木造鳥居としては日本一の大きさ 凡そ15m超 
  
上左 勝海舟直筆の扁額 上中 柿本人麻呂神社 氷川神社境内 人麻呂の直系の綾部氏が室町時代に川越に移住し創建したもの 綾部氏十代目が初代川越市長の綾部利右衛門  上右 山上憶良歌碑 人麻呂神社横 『父母を見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世間は かくぞ道理 もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱ぎ棄つるごとく 踏み脱ぎて 行くちふ人は 石木よりなり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み 聞し食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 万葉集 巻5-800  反歌 ひさかたの 天路は遠し なほなほに 家に帰りて 業を為まさに 万葉集 巻5-801』 と万葉仮名で彫られている    
  左 伊勢物語歌碑 三芳野小学校正門脇     坂戸市横沼213-1

この歌の由来が講談社学術文庫の伊勢物語「たのむの雁も」の項にある 

昔 男武蔵の国までまどひありきけり。さて その国に在る女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なむあてなる人に心つけたりける。父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむあてなる人にと思ひける。このむこがねに詠みておこせたりける。住む所なむ入間の郡みよし野の里なりける

みよし野の たのむの雁も ひたぶるに 君が方にぞ よると鳴くなる
むこがね返
わが方に よると鳴くなる みよし野の たのむの雁を いつか忘れむ
となむ。人の国にても猶かかることなむやまざりける。とあり次の現代語訳がある。

昔、ある男が武蔵の国まで目的もなく定かでなく道も知らぬままに歩いていた。そしてその武蔵の国に住んでいる女に夜這いした。女の父はこの男とは違う他の男と結婚させようと言ったが女の母親は身分の高貴な人に執着した。なぜなら父親は普通の身の人で母親の方は都の貴族の系統の藤原氏の出だった。そのため高貴な人に娶あわせようと思った。この女の住む所は入間郡の三好野の里だった。
そして母が男に送った歌が上の一首である。そこで男が返した歌が下の一首なのだ。
都では勿論そうであったが京をを離れた他国に於いてもやはりこのような風流じみた色好みはやまなかったのだ。とありました

この訳文の歌碑が堂々と小学校の正門前に設置されてるのをみて可笑しくなり載せた次第です
(*^▽^*)