武 蔵 野
古非思家波 素弖毛布良武尓 牟射志野乃 宇毛良我波奈乃 伊呂尓豆奈由米
恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ     万葉集巻14-3376
武蔵野乃 久佐波母呂武吉 可毛可久母 伎美我麻尓未尓 吾者余尓思乎
武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は寄りにしを    万葉集巻14-3377
和我世故尓 安杼可母伊波武 牟射志野乃 宇家良我波奈乃 登吉奈伎母能乎
我が背子を 何どかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時無きものを  万葉集巻14-3379
 
 上 国指定史跡 多摩川上水説明板 三鷹市三鷹駅前
承応3年(1654)多摩川羽村取水口から43kmさき四谷大木戸までの水路で江戸の発展に大きく貢献した その後明治31年(1898)に完成した新宿淀橋浄水場への水路として昭和40年(1965)廃止されるまで利用された貴重な土木技術で標高差100mで21cmの水を流すように設計された長大な土木施設遺構である
上右 玉川上水
 三鷹駅前から南東方向の上水両岸は風の散歩道と呼ばれている。5月下旬は鬱蒼とした新緑で川底も見えないくらい。錦鯉が泳いでいる。
右 紫橋 玉川上水にかかるこの橋は三鷹市と武蔵野市を結ぶ都市計画道路として建設された。橋の名前の由来は

紫の ひともとゆへに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る
                       古今和歌集 詠み人知れず

当時この付近一帯に咲き誇っていた紫草によるむらさき染めにちなむ。
 
 
 玉鹿石 三鷹市下連雀3丁目  太宰治が入水した地点に出身地北津軽郡金木町の石が置かれている   小説乞食学生の一節 三鷹市下連雀3丁目  昭和23年6月 太宰治はこの近くの玉川上水で39歳の生涯を終える  
      
 左端 正面玉川入水地点   真中 遺体発見地点 玉鹿石から凡そ1km下流の新橋付近     右端 太宰の墓碑 禅林寺 三鷹市下連雀4丁目
      武蔵野の をぐきが雉 立別れ 去にし宵より 背ろに逢はなふうよ    万葉集 巻14-3375
太宰の墓碑側面には 昭和23年6月13日文綵院大猷治通居士 俗名島津修二40歳 とある

右 禅林寺
 

左 森林太郎(鴎外)の墓 島根県出身 東大医学部卒 陸軍軍医 日清・日露戦争従軍 45歳で陸軍軍医総監・ 陸軍省医務局長 文人として舞姫 高瀬舟 山椒大夫 安倍一族等の業績
遺言『余は石見人森林太郎として死せんと欲す』とあり遺言通り墓石には森林太郎之墓とだけある 太宰の墓の正面にある
  
左 国木田独歩文学碑
    武蔵野市 5丁目
『今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある』と作品『武蔵野』第六章の書き出しが刻まれている。


右 さくら橋 玉川上水
『武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり』で始まる小説武蔵野の第5章の一節
武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。
武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当あてもなく歩くことによって始めて獲えられる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処ずいしょに吾らを満足さするものがある 。これがじつにまた武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのような処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか。じつに武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこのゆえである。 (碑は三鷹駅北口にもある)
         
武蔵野は 袖ひつばかり 分けしかど  若紫は たづねわびにき  後撰和歌集 詠み人知れず
上左端 井心亭        三鷹市下連雀2丁目  この向が太宰治の旧宅のあったところだが勿論今は別人宅。然しこの亭には旧太宰宅玄関前にあったさるすべり(百日紅)の木が保存されている(上真ん中)。現在井心亭は三鷹市和風文化施設でそこには太宰著『おさん』のさるすべりの文字のある一節の案内板がある。

上右端 三鷹の森ジブリ美術館ゲート    三鷹市下連雀1丁目

右端 ジブリ美術館      
館主は勿論宮崎 駿氏 三鷹市にあるアニメ美術館で宮崎氏による断面スケッチをもとにデザインされた。正式名称は三鷹市立アニメーション美術館。宮崎氏は学習院大学卒の世界的アニメーター。紅の豚・もののけ姫のヒットや千と千尋の神隠しは2002年ベルリン国際映画祭ではアニメとして初の金熊賞・2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した。又2005年にはベネチア国際映画祭で世界的優れた映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。その他数々の賞を受賞。
 
         
上3枚武蔵野の俤を残す井の頭恩賜公園内 武蔵野市・三鷹市 左端 サトーハチロー作詞・中田喜直作曲の小さい秋見つけた歌碑。メロディ-はここ井の頭公園の散策で生まれた。中・右端 神田川源流 昭和48年南こうせつとかぐや姫によって大ヒットし若者文化の象徴的歌 一級河川神田川水源。
 
往古武蔵野は東京・埼玉と神奈川県の一部を指していた。          上 近藤勇生家 宮川家跡は調布市野水1丁目6-25 
      行く末は 空も一つの 武蔵野に 草の原より 出づる月影  新古今和歌集  藤原良経
         
上左端 近藤勇産湯の井戸  中 近藤神社(井戸の隣) 右端 天然理心流道場撥雲館跡(生家の向) 元幕臣山岡鉄舟の命名 
       武蔵野の うけらが花の おのづから ひらくるときも なき心かな     清輔集 藤原清輔

近藤勇墓地 龍源寺 三鷹市大沢6-3-11 宮川勇は向かいの天然理心流近藤家の養子となり近藤勇となる 右 近藤勇胸像  龍源寺
 
上右端 近藤勇辞世 龍源寺  孤軍援絶作因俘 顧念君思涙更流 一片丹喪能殉節 睢陽千古是吾 儔 靡他今日復何言 取義捨生吾所尊  快受電光三尺剣 只将一死報君恩
左 中央が近藤勇の墓碑
 明治元年4月25日板橋刑場で斬首。 首は京都三条河原で晒し首でその後首級は行方不明。胴体は刑場に埋葬されたが後日親族が菩提寺龍源寺に再埋葬。 他にも墓(?)がある。 
①東京都板橋区板橋駅前にあるのは新選組の墓碑で表面に近藤勇・裏面に土方歳三・両側面に隊士の名。永倉新八等が中心になり建立。
②愛知県岡崎市法蔵寺のは首級の埋葬と言われるが不明。慰霊碑と言われる。
③福島県会津若松市天寧寺も慰霊碑。土方歳三が建てたとも。土方歳三の慰霊碑もある。歳進院殿誠山義豊大居士
左 布多神社 調布市調布ヶ丘
 武蔵の国は当時の税金(租・庸・調)の内、調(ちょう)として布を貢献したことで著名でありさいたま市浦和にも調(つき)神社があり、布や穀類を集荷したという。調布市の地名の由来もここから来ている
延喜式内社とし武蔵国でも有数の古社 元々は多摩川河畔にあったが度重なる氾濫洪水のため文明年間に現在地に移転したという
京王線調布駅から徒歩5分です
 布多天神太閤の制札
布多天神所蔵の太閤制札は豊臣秀吉が後北条氏を討つために、大軍を率いて京都を出発、小田原城を攻略しました。また、関東一円の北条方の城も次々に攻め降しました。この禁制は、この時、占領した村の治安維持と民衆の人心安堵のために天正18年(1590)に郷中に出されたもので当時布多の地は補陀と記載されている

禁制
武蔵国多東郡補陀郷
一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事
一、放火之事
一、対地下人百姓非分之儀申懸之事
右 条々堅今停止訖若於違反輩者可被處厳科者也
天正十八年四月  御朱印
左 布多神社境内にある多摩川万葉歌の由来碑
 「多麻河にさらす調布(てつくり)さらさらに とよみ給ひしは此の布多の里にぞありける。よりて此の所に布多天の神社おはしましけり。今玉川のほとりにふるき御社の跡ありて、そのかみ布さらせし里人のまつり奉りし御神なるに、いつのころよりや此のわたりにはうつし奉りけむしらず・・・・省略。このいしぶみを建て、かの布さらせし里の跡いく萬代も動ぎなく人のまどわぬあかしとなしけり。・・・省略」
万葉歌に歌われた里は此処であるとした碑である。多摩川は何度となく洪水で流露を変えていて、その場所が誤って伝えられてしまうので、この碑を建てたと記してある。
 武蔵野に 占へ肩灼き まさでにも 告らぬ君が名 占に出にけり   万葉集巻14-3374
下右端 慶応4年3月近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が江戸から甲府へと向かう途中西光寺に立ち寄った そして上石原の氏神様である若宮八幡神社の方に向かって近藤勇が戦勝を祈願し西光寺の門前にある名主の中村勘六の家で歓待を受けた. 近藤は村人たちの見送りに答えながら村境まで歩いたそうです


東京五輪マラソン折り返し点記念碑 調布市西町
京王線飛田給駅から1km位のところに味の素スタジアムがある この前をに国道20号線(甲州街道)があります この前に 1964年 TOKYO マラソン折り返し地点
 の碑が立っています
 
西光寺 近藤勇の像
調布市上西原
 布多天神から味の素スタジアムにむかう途中にある 調布市は近藤勇生誕の地だけに人気がある
知らねども 武蔵野といへば かこたれぬ よしやさこそは 紫のゆゑ    古今和歌六帖 
     
上左端 天然記念物大國魂神社欅並木の碑 大正13年国で2番目の天然記念物に指定された大都会では珍しい巨木並木     府中市宮町 京王線府中駅徒歩5分
上中 府中市指定文化財ケヤキ並木馬場寄進の碑 『従是一之鳥居迄五町余左右慶長年中寄附之馬場』 と彫られている 江戸中期建立でケヤキ並木両側の歩道部分はかって馬場であったので馬場大門と呼ばれている この550mにわたる欅並木の起源は源頼義・義家親子の前9年・後3年の役における戦勝祈願と平定成就で欅千本を奉植したのに始まる 現在の並木は徳川家康が慶長年間二筋の馬場を寄進し両側に土手を築いてその上に欅苗木を植え大國魂神社へ寄進した野に始まる
上右端 源 義家の像 彼御手植えの周囲9mのご神木として敬愛されていた巨大古木がキティ台風や度重なる暴風雨と落雷による火災等で枯死 そのあった所に義家像を建立した 
武蔵野は 袖ひつばかり 分けしかど 若紫は 尋ねわびにき    後撰和歌集 詠み人知れず
       
 上左端 武蔵野万葉歌碑 『武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は寄りにしを』  万葉集巻14-3377
上中・上右端 大國魂神社参道入口と参道   歌碑は道を挟んでこの参道入口の向にあるケヤキ並木馬場の始まり口
 
上左 都指定有形文化財大國魂神社 当社は武蔵国の総社であり東京五社の一社  また武蔵国の一之宮から六之宮までを合わせ祀るため「六所宮」とも呼ばれる  当社の起源は人皇第十二代景行天皇41年(111)5月5日大神の託宣に依って造られたものである  出雲臣天穂日命いづものおみあめのほひのみことの後裔が初めて武蔵国造むさしのくにのみやつこに任ぜられ当社に奉仕してから代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれる  その後孝徳天皇(596-654)の御代に至り大化の改新(645)のとき武蔵の国府をこの処に置くようになり当社を国衙の斎場とし国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられた
上右 武蔵国国府跡  奈良から平安にかっけて400年間武蔵国を治めた役所跡国府・国衙跡  府中の地名はは国府の中との意味で府中となった 武蔵の国は東京都・埼玉県・神奈川県の一部と広大で大国魂神社の隣にある
武蔵野の 草のゆかりを 聞くからに おなじ野辺とも むつましきかな  古今和歌六帖
  
 上左端 府中鍵屋の辻・札ノ辻  甲州街道と鎌倉街道とが鍵の様に交わる所に高札場あったので鍵屋の辻・札ノ辻と呼ばれた 安静6年(1859)府中宿大町大火がありそれを機に万延2年(1861)中久本店蔵を防火建築として再建した この隣が問屋場(宿・駕籠かき・人馬の中継地)であったので大道芸人・辻芸人で楽しむ人で賑わい武蔵府中一の賑わいの地となた  上中 中久本店 現在酒座喫茶蔵となっている  上右端 中久本店向かいにある府中高札場 東京都指定旧跡 甲州街道・川越街道・相州街道が交わる交差点 府中の中心地江戸時代禁制・法令を伝えるために札板を掛けたところ
 
女郎花 にほえる秋の 武蔵野は 常よりも猶 むつまじきかな   後選和歌集 紀貫之
      
上左端  新田義貞公像
京王線・南武線分倍河原駅前 
          府中市片町
分倍河原合戦は元弘3年(1333)5月15日日新田義貞と北条奏家が鎌倉幕府の存亡をかけここ分倍河原で天下分け目の戦いの地である 勝利を収めた新田軍は一気に鎌倉を攻め落とし遂に140余年続いた鎌倉幕府を滅亡させた
上中 分倍河原古戦場の碑
執権北条泰時の鎌倉幕府打倒のため上野・武蔵・越後から鎌倉街道を南下しここ分倍河原での決戦となった 一時北条氏に敗れた新田軍は所沢方面に退却したが後に三浦義勝をはじめ相模の豪族が新田軍に参加することにより北条氏は敗北した
左 古戦場前の鎌倉街道
上右端 分倍河原古戦場公園 新田川 

左 万葉歌碑 府中市南町
府中市郷土の森博物館公園内
赤駒を 山野に放し 捕りかにて 
 多摩の横山  徒歩ゆか遣らむ
 
      万葉集巻20-4417


武蔵野を 霞の絶え間に 見渡せば 
  行く末遠き 心地こそすれ
 
       後撰和歌集 平兼盛


行く末は 空もひとつの 武蔵野に 
    草の原より 出るづ月影
  
     新古今和歌集 藤原良経
武蔵野は 月の入るべき 峰もなし 尾花が末に かかる白雲   続古今和歌集集 源 通方