さざなみや 志賀の都は あれにしを
 昔ながらの 山桜かな


この歌は千載集に『よみ人知らず』の作として載っているが作者が忠度であることは周知の事実であったが朝敵の身となったため撰者の藤原俊成が配慮して名を隠して『読み人知れず』として千載和歌集に載せている
長田の里(長田神社) 
神戸市長田区長田町に位置する神社 旧社格は官幣中社 廣田神社・生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社とされる 生田神社・湊川神社とともに神戸を代表する神社の一つ 摂津名所図会には『兵庫より二十町ばかり西にあり 日本紀に長田國と書けり 長田神社 長田村にあり 西國街道の北側に鳥居あり』とある 神戸七福神の恵比寿さんを祀っているので有名
雨露も めぐみあまねき 時にあひて 長田の里に 早苗とるなり    夫木和歌集  藤原兼仲
上左 神門    本殿以下諸社殿16件・黒漆金銅装神輿等国指定重文・登録有形文化財を有する   上右 社殿
日本書紀によると 生田・広田神社同様神功皇后が三韓征伐後新羅から難波に帰還する途中武庫の湊(現在の駒ガ林)船が進まなくなったので占ったところ事代主の神より『吾を長田國に祀れ』とのご神託を受け創祀された 平成13年には創建後1800年を祝った由緒を誇る
 当時の長田國は東は湊川西は須磨一の谷の間を言う  神戸市長田区長田町3丁目
     
 上左 官幣中社長田神社の碑 山陽電鉄長田駅前にある  上中・右 監物太郎頼賢之碑 駅近くの碑の説明文によると 彼は生田の森の平家の大将平知盛の家臣 寿永3年(1183)2月7日の源平一の谷の合戦主人知盛・息子知章と3人で海の方へ落ち延びようとしたとき源氏方の児玉党との戦いになった 主人知盛を助けんと監物太郎は嫡男知章とともに討死した それにより知盛は落ち延びることができた 江戸時代享保の年間並河政所が諸国行脚の途中討死の地(長田区明泉寺)に立より監物太郎の忠義を称えるため西國街道近くのこの地に石碑を移した 同じく知章の碑もこの付近に移され源平勇姿の碑として近くにある    神戸市長田区4番町8丁目 
 
上左  源平合戦勇士の碑  神戸市長田区五番町  中央が平知章之碑 左にある3っつの碑の内一番奥の碑が越前三位平通盛之碑 謡曲では木村源吾重章が通盛と差し違えたとあるが吾妻鏡では源氏の木村三郎成綱の子俊綱によって討たれたとある人物  中央が猪俣小平六則綱之碑で武蔵七党の一つ猪俣党に属する武士で一の谷の合戦では平家の侍大将平盛俊に組み伏せられたが巧みにに逃れて盛俊を討つ 一番手前が木村源吾重章之碑 以上明泉寺付近で討死した源平の武士を分け隔てなく弔った記念碑  上右 平知章の墓(ネットより拝借) 神戸市長田区明泉寺町 明泉寺境内 父知盛をかばい討たれた
    
上2段 平薩摩守忠度(さつまのかみただのり)腕塚堂  神戸市長田区駒ヶ林町4丁目   平忠度は清盛の末弟で歌道・武道に優れた豪勇者
 一の谷合戦(1184)の時彼は一の谷陣地における大将であったが義経の奇襲戦法に敗れここ駒が林にむけて落ちて行く途中源氏の武将岡部六弥太忠澄と遭遇あわや忠澄の首を討たんとしたが彼の家臣に右腕切り落とされた 忠度はついに観念して念仏を唱えて討たれた その時彼のには下の歌の紙片が残されていた 有名な旅宿花である
行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花ぞ今宵の 主ならまし
明治39年の歌青葉の笛の二番の詩は  ♪更くる夜半に 門をたたき わが師に託せし 言の葉あわれ いまわの際まで 持ちし箙に 残れるは『花や 今宵』の歌♪ 
詩の意味は平家が都落ちの時夜半途中から都に引き返し『千載和歌集集』の編者である師藤原俊成に『今後勅撰の歌集が作られるようなことがあればこの中から一首でも載せてほしい』と自詠の歌を師に託した事を指している それにしても駒ヶ林の横丁の路地裏に敦盛塚があるのには驚いた  御堂の脇に上の歌がかけられていた
うみしづか いそべのまつを わけゆけば こまがばやしに ただのりのつか
まいるなら つきのなのかは ごめいにち かねのひびきの たゆるひまなし
奥にある十三重の塔はこの忠度を祀る石塔と伝えられている
 
 薩摩守忠度胴塚(首塚)
神戸市長田区野田町8丁目
忠度の胴を埋めたと伝える場所には忠度の墓やお地蔵さん源平合戦で戦死した名もない兵たちの塚が安置され大きな石碑には『正四位薩摩守平朝臣忠度之墳』と刻まれている

平忠度の右腕を祀る「腕塚神社」となきがらを祀る「忠度塚」は明石にもある 明石市天文町1丁目と2丁目にある

いにしへの 駒ヶ林の 松みれば
植ゑし古葉も かはらざりけ

        藤原兼頼
当時はここ駒ヶ林辺りは海辺であり光源氏が植えた松 源氏松 があった所という