鳰鳥(にお)の里 葛飾
鳰鳥は葛飾の枕詞である 『かつしか』は古代からの地名で奈良正倉院文書には『葛餝郡』と記されている 現在の江戸川流域に隣接する千葉県・東京都・埼玉県・茨城県にまたがる広い地域を指したようでこの辺りは早稲米の産地であった 『万葉集』では勝鹿・勝牡鹿・可豆思賀と様々に表記されている 東京都葛飾区にその名を留めている 鳰とりは『カイツブリ』の古名で 潜水が得意で潜(かづく)から葛飾の枕詞になったようだ 大伴坂上郎女の歌に下の歌がある
   鳰鳥の 潜
(かづ)く池水 心あらば 君に我(あ)が恋ふる 情(こころ)示さね  万葉集巻4-725         
   
  勝鹿や 昔のままの 継橋を わすれずわたる はるがすみかな        勅撰和歌集  慈円
 下 鳰鳥の里の最北部と思われるここは埼玉県春日部市 なんとここに古利根川古隅田川が流れていたのです 左端 右の流れが古利根川 左の細流が古隅田川  新町橋上からの眺め  
    
   
 左端 春日部八幡神社  春日部市粕壁5597  中 墨田川とくれば都鳥 都鳥と言えば在原業平です ありました!! 伊勢物語の有名な歌のりっぱな碑が神社参道入口に 
名にしおはば いざ言問はん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
右端 古利根川にかかる新町橋は昔上喜藏河岸跡で日光道中(奥州街道)に架かる唯一の橋 業平は奥州まで来たことになってるので彼はこの橋を渡ったはず 上の歌碑があっても可笑しくはない 当時は大橋といわれ日光東照宮への街道のため架け替えには幕府の費用負担でしかもその間仮橋までつくり往来を妨げぬ様にしたという幕府直轄の様な貴重な橋だった
  
上左 國指定有形登録文化財 旧茂木房五郎家住宅跡 現懐石あたご邸 野田市野田字愛宕浦740-2  江戸時代後期から醤油醸造業を 営んだ茂木房五郎家(キッコーマン創業者の一族)の住宅であり 新しく醸造工場を建設したことにより敷地に大規模な住宅が建て られ 上右 近代産業遺跡としての歴史的価値が高いキノエネ醤油(甲子醤油)工場  野田市中野台157  野田においては古くから醤油製造が盛んだったが大正6年多くの業者(高梨・茂木7社)が野田醤油㈱(現キッコーマン)に集約した後も独立を維持してきた唯一のメーカー 創業は天保元年(1830) 本社社屋は1897年(明治30年)に建設された伝統建築で作業を行う工場建物も確認できる最古のものが1921年建築の鉄筋コンクリート造
    
 上左 キノエネ醤油㈱  野田市中野台157  中・右 野田醤油発祥の地碑  野田市野田688  室町時代の永禄年間に飯田市兵衛家が此の地で醤油醸造の亀屋藏があた所 伝承によれば永禄年間(1558から70)に飯田市郎兵衛の先祖が甲斐武田氏に溜(豆油)醤油を納め川中島御用溜醤油と称し野田市において最も古い醤油醸造は飯田家と言われてる
かつしかの 浦間の波の うちつけに 見そめし人の 恋しきやなぞ      続後撰和歌集  藤原 道隆
 
キッコーマンものしり醤油館   野田市野田110  林立していた野田の醤油工場を1917年(大正6年)に茂木一族7家と髙梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」を設立し商標は茂木佐平治家が使っていた『亀甲萬』に統一し野田の醤油醸造業者のほとんどが合流した 上左端 醤油工場  右3枚 近代化産業遺産指定御用醤油醸造所 皇室専用の御用蔵 
にほ鳥の 通路もさぞ たどるらし よひよひことの 池の氷に     新拾遺和歌集 源 義高

 
左 御用蔵内部  上 鳰鳥(カイツブリ ネットより)
にほどりの すむ池水の 絶えもせば いかにしのべど かよひ初めけむ  新拾遺和歌集  源 兼氏 
 
野田市最古の神社桜木神社  野田市桜台210  栞によると平安朝の仁寿元年大化の改新の立役者藤原鎌足の後裔冬嗣の3男嗣好公が此の地に桜の大木があり余りの美しさに神殿を建立したのに始まる   ここ桜台一帯は4世紀古墳時代の遺跡群後地で多くの遺構・遺跡・遺物が発見されている所
いひ出でぬ 思ひはつらし 鳰鳥の すむ池水の そこに深めて   新千載和歌集 権大納言実夏
 
中根八幡遺跡と葛飾早稲の地  弥生公園万葉歌碑  野田市中根町140-53 桜台遺跡の一部
鳰鳥の 葛飾早稲を 饗(にえ)すとも 其の愛(かな)しきを 外に立てめやも       万葉集巻14-3386 
 みずに潜る(かつぐ)ことから葛飾にかかる枕詞となる葛飾の早稲を新嘗するときは男性の来訪を忌み嫌い家の入口を閉じる習わしがあった 例え家人でさえも許さない厳格な戒律だという  然し愛しい貴方が尋ねた時には外に立たせたままにはできないという女性の恋心をよんだもの     新嘗祭=秋に収穫された新米を神に祀る儀式
 
左端  におどり公園と  左中 園内万葉集巻143386の歌碑 流山市西深井字1028-1  右中 諏訪神社 流山市駒木657 創建は壬申の乱の当事者大海人皇子(天武天皇)の皇子高市皇子)の末裔とあ 万葉歌碑が沢山ある  右端 義家献馬の像 神社境内 説明板によると前9年・後3年の役の奥州征伐の折戦勝祈願の為に馬と馬具を献上したとある   
       
諏訪神社境内歌碑 上左端 にほ鳥の 葛飾早稲を 饗すとも その愛しきを 外に立てめやも  巻14-3386  中左 行こ先に 波なとゑらひ しるへには 子をと妻をと 置きてとも来た 巻20-4385  この2つの碑は一つの石に彫られている  中右 銀も 金も玉も 何せむに 勝れる宝 子に及かめやも 万葉集  巻5-803 山上憶良
 上右端  道問へば 大根引いて 教けり 蕪村
 
上左2つ 茂呂神社と境内万葉歌碑 流山市三輪野5  鳰鳥の 葛飾早稲(わせ)を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも 万葉集巻14-3386   上右中 近藤勇新選組流山本陣跡 流山市流山2-122-3 流山は近藤勇が最後に陣営を敷きついに自首した地 近藤勇が流山を選んだ理由はわかっていないが最終目的地である会津へ向かうためなるべく官軍の手薄な道を選んで途中分散した同志を集め新部隊を編成する目的で陣を敷いたと考えられる 幕末流山は新撰組が屯集した最後の陣営地で近藤・土方最後の別れの地だ  上右端  一茶双樹記念館 流山市流山6-671-1 双樹とは流山で味醂開発した醸造業の秋元三左衛門の雅号で一茶のスポンサー的存在で享和3年から文化14年の15年間に50回も流山にきている
 
上左端 丹後稲荷神社 埼玉県三郷市早稲田8-17-8  中左 万葉遺跡葛飾早稲発祥の地碑 丹後稲荷神社境内 中右 万葉歌碑 神社境内 鳰鳥の 葛飾早稲を 饗すとも その愛しきを 外に立てめやも 埼玉県三郷市を含む古代の鳰鳥の里葛飾一帯はは早場米の山地だったのだろう 早稲田の地名がその名残である 上右端 におどり公園  三郷市中央1-10-5 早稲田も今や近代的団地となりその面影は勿論ない その前の公園には名残の鳰鳥の名がついていた 万葉仮名  爾保杼里能 可豆思加和世乎 爾倍須登毛 曽能可奈之伎乎 刀爾多弖米也母
 
国指定重文戸定邸 松戸市松戸714  水戸藩最後の藩主徳川武昭(徳川慶喜の弟)が明治まで居住  徳川家の住まいと庭園が完全に残り一般公開されている唯一の場所 
乱れ葦の 下根にかよふ 鳰鳥の うきすまひこそ 此の世なりけり  続後拾遺和歌集  藤原為顕
 
上左 国指定名勝戸定邸庭園 当時この庭から江戸川や富士山も見られた 上右2つ 史蹟名勝天然記念物ニ十世紀梨発祥の地  松戸市二十世紀が丘梨元町24 二十世紀梨は明治21(1888)年に大橋村(現在の二十世紀が丘梨元町)で当時13歳の松戸覚之助少年によって発見されました この梨は二十世紀を代表する品種になってほしいという期待を込めて明治37(1904)年に『二十世紀梨』と命名されました 現在では鳥取県が全国一の生産量を誇り二十世紀梨誕生の地である二十世紀公園には記念碑や鳥取県から贈られた感謝の碑が立っていま